風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

9月17日(日) 出エジプト記17章

「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」 出エジプト記17章11節

 民は主の命令に従ってシンの荒れ野を出発し、レフィディムに宿営しますが、そこでは飲み水が得られませんでした(1節)。既にエジプトを出立してひと月以上が経過し(16章1節)、この後、約束の地にたどり着くのにどれだけの時間を必要としているのか分かりませんし、主の命令に従って進む民を、主は飲み水のないところに導かれたのです。

 民がモーセに「我々に飲み水を与えよ」(2節)と言うと、モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」(2節)と答えました。しかし、渇きの中にいる民は「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(3節)と不平を言います。かくて、旅路だけでなく、民の心も荒れ野になって行くのです。

 そこでモーセは民と論じ合うのをやめ、主を叫び求めました。それは、彼の命が危ういからです(4節)。主は「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(5,6節)と言われました。

 主はモーセに、不平の処理の仕方についてのアドバイスではなく、水の見つけ方を指示されたのです。モーセは指示に従って長老たちを連れ(5節)、ナイル川を打った杖(7章17,20節)でホレブの岩を打ち(6節)、水を出します。長老たちはその目撃者となりました。

 それは、「なぜ、主を試すのか」とモーセが言っていることから(2節)、彼らはモーセに水がないと文句を言っただけでなく、主は我々の間におられるのかと疑っていたからで(7節)、もしおられるなら、水を出すことが出来るだろうと言って、主を試したというのでしょう。それに対して主自ら、しるしをもって存在を示されたわけです。

 この奇跡を行ったのは、杖ではありませんし、モーセの力でもありません。ホレブの岩の上に立たれた主が、その岩から水を出されたのです(6節)。けれども、主はモーセ抜きでその奇跡を行われませんでした。さらに、御業のために岩をも用いられたのです。

 ホレブとは、モーセが十戒を授けられるシナイ山のこと、そして、レフィディムは「平原」という意味で、シナイ山の北西の平原を指します。主がホレブの岩の上に立たれるということは、シナイ山で主が行われることを予見させます。主は、ここで水を与えられたように、そこでモーセに律法を授けられるのです。

 そのとき、アマレク人が襲い掛かりました(8節)。モーセはヨシュアに「民の中から戦いに出られる男子を選び出し、出陣せよ」と命じ(9節)、ヨシュアはその通りにします(10節)。それは、愛する家族・同胞を守るための真剣な戦いです。

 一方、モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登りました(10節)。それは、高みの見物をするためではありません。冒頭の言葉(11節)に「モーセが手を上げている間」と記されており、これは、イスラエルの賛美、あるいは祈りの姿勢を表わしています。3人は、神に賛美と祈りを捧げるために丘の頂に登ったのです。その手には、「神の杖」が握られています(9節)。

 そこで、不思議なことが起こります。それは、モーセの手が上がっている間はイスラエル軍が優勢に戦いを進めるのですが、モーセの手が下がるとアマレク軍が優勢になるというのです(11節)。これをどう考えたらよいのでしょうか。

 これは、イスラエル軍の実力がアマレク軍に劣っているということです。祈りなしには、勝利を取ることが出来ないということです。そもそも、エジプトを脱出したイスラエルの民が十分に武装していたとは考えられません。だからこそ、モーセは祈りの手を上げ続けるのです。

 ヨシュアらの命がかかっているわけですから、祈りも真剣勝負です。しかし、モーセも齢80歳、一人で手を上げ続けることが出来ません。アロンとフルがその両側で彼の手を支えます。その故に、モーセの手はしっかりと挙げ続けられていました(12節)。

 ところで、この記事に登場してこなかった人々がいます。それは、戦いに参加していない高齢者や婦人、子どもたちです。彼らはそのとき、何をしていたのでしょうか。遊んでいたでしょうか。家事で忙しくしていたでしょうか。

 そうではないでしょう。ヨシュアに率いられた男たちが、アマレク軍と命懸けで戦っているのです。そしてそれは、自分たちを守るための戦いです。アマレク軍の優勢が伝えられるならば、「モーセ、何やってる」と野次を飛ばすというのではなく、神よ、イスラエルをお守りください、私たちのために戦ってくださいと、これまた真剣な祈りを捧げたのではないでしょうか。

 イスラエルの民はホレブの水を飲み、主が自分たちと共にいてくださることを知っていました。そのような民の祈りがモーセに力を与え、アロンとフルが彼の両手を支えているように、モーセの心をしっかりと支え続けたのだと思います。

 ここに、前線に出て戦っているヨシュアたち、それを背後で執り成すモーセ、その右腕としてモーセを支えるアロンとフル、さらにモーセの背後で祈りを捧げる民らが一つとなって、戦いに臨んでいる様子を見ることが出来ます。

 地上で二人が心を合わせて祈るなら、それを叶えてあげようと約束された主は(マタイ福音書18章19節)、こうした一致の祈りに応えて、イスラエルに勝利をお与えくださったのです。

 また、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(同18章20節)と主イエスが言われました。私たちと共におられ、一致の祈り願いをかなえてくださる主に向かい、皆で心を合わせ、一つになって祈りと願いを献げましょう。静岡、東海地方、全日本のリバイバルを願って!

 主よ、私たちはこの世にあって無力な存在です。しかし、私たちと共におられる主が私たちのために立ち上がってくださるなら、どのような戦いにも勝利することが出来ます。御名の故に、栄光を主がおとりくださいますように。この地に御業が行われますように。そのために、私たちを用いてくださいますように。そうして、御名を崇めさせてください。 アーメン






9月17日(日)主日礼拝説教

9月17日(日)主日礼拝は、召天者記念の礼拝として行いました。
礼拝には、教会員14名、来賓15名(召天者ご遺族8名、子ども2名を含む)がお見えになりました。
礼拝後、軽食を摂って教会墓地に出かけ、墓前礼拝を行いました。
墓前礼拝にも11名の方(来賓4名)が参加されました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「キリスト者の自由」
聖書 ガラテヤ書5章2~15節

御覧ください。
 

9月17日(日)主日礼拝案内

02
9月17日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、士師記から聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
今回は、召天者記念の礼拝として守ります。
礼拝では、ガラテヤ書5章から「キリスト者の自由」と題して説教を頂きます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。

礼拝後軽食をとり、その後、教会墓地で墓前礼拝を行います。

 

9月16日(土) 出エジプト記16章

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」 出エジプト記16章4節

 「エジプトを出た年の第二の月の15日」(1節)、それは、エジプトを脱出して30日後のことです(12章参照)。イスラエルの民は、12の泉と70本のナツメヤシが茂るエリム(15章27節)を出発してシンの荒れ野に入ると(2節)、モーセとアロンに対して「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)と不平を述べ立てます。

 「シンの荒れ野」とは、英語で「the wilderness of Sin」と書き、SINとは英語で「罪」という意味ですから、英語的には「罪の荒野」ということになってしまいますが、当然ヘブライ語の「シン」に罪という意味はありません。月の神シンに由来する名前と考えられています。

 民がモーセらに不平を述べたのは、シナイの荒れ野を一ヶ月間旅を続けて来て、エジプトから持って出た食糧が底をつき、明日から何を食べればよいのか分からないという事態になったからでしょう。マラの水の問題に続いて、これも大問題です。不平を言うのは、至極当然とも考えられます。

 民はモーセたちに対して、エジプトを脱出させてくれたことは感謝に価するけれども、この荒れ野でどのようにして飲み水や食べ物を確保するつもりなのか、その計画を示せ。まさか、計画なしに事に及んだわけではあるまい。もし示せないようなら、荒れ野で飢え死にするより、エジプトに戻ってパンと肉を食べて生きる方がよいという思いを、ここに訴えているわけです。

 しかしながら、彼らはマラの苦い水を甘い水に変えて頂いたという事実(15章25節)、力を与えられて御言葉に聞き従って歩んだとき、エリムというオアシスに到着したという事実(同26,27節)を忘れています。

 確かに、思い出で腹を満たすことは出来ません。しかし、ここで「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(同2節)と自ら歌った主への信仰を思い出すべきです。どんなときにもどんな場所でも、民を力づけ、救い出し、歌を歌わせてくださるのです。

 主はそのような民に対して冒頭の言葉(4節)のとおり「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」と告げられました。それは、イスラエルの民が、彼らをエジプトから導き出された主を知り(6節)、彼らの嘆きを聞いて食料を用意される主の栄光を見るためです(7節)。

 その言葉のとおり、朝、宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると、霜のようなものが薄く残ります(13,14節)。それが、主が荒れ野を旅する民のために食物として与えられたパンでした(15節)。

 これは、不思議なパンです。このパンは「マナ」と名付けられます(31節)。「これは一体何だろう」(マン・フー:15節)がその語源と考えられています。民は毎朝、必要な分のマナを集めることが出来ました(18節)。しかし、たくさん集めて翌日の分としてとっておくと、虫がついて臭くなります(20節)。また、日が高くなると溶けてしまいます(21節)。

 ところが、六日目だけはいつもの2倍の量を集めることが出来(22節)、翌日まで残しておいても臭くならず、虫もつきません(24節)。それは、七日目が休息の日、主の聖なる安息日だからという説明がなされています(23節)。十戒で安息日が定められるのは、20章の記事になってからですが、それを前提として、予め安息日を守るための対策がなされていたというところです。

 冒頭の言葉で主は、「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」と言われていました。そのことで、「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ」と命じられ(16節)、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」(19節)と言われますが、聞かずに翌朝まで残しておく者が出ます(20節)。

 また、「今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう」(25節)と言われますが、七日目に集めに出る者がいます(27節)。見事に、主を信頼し、その御言葉に忠実に従うという試験に失敗しています。

 そこで、「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか」(28節)と叱られ、「よくわきまえなさい。主があなたたちに安息日を与えたことを」(29節)と言われて、安息日の守り方を具体的に指導されました。

 それは、安息日には何もしないようにということを徹底するためなどではありません。民が主に信頼して御言葉に注意深く耳を傾け、御心を行う者となるようにするためです。

 主イエスが悪魔の試みに遭われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)という言葉で、誘惑を退けられました。

 これは、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」という申命記8章3節からの引用です。

 主は、日毎の糧を私たちにお与えくださいます。ゆえに、日毎の必要のみを求めるのではなく、日毎の必要を満たしてくださる主に信頼するよう、期待されています。主は、その御言葉をもって私たちのすべての必要を満たしてくださるのです。「光あれ」(創世記1章3節)と言われると、そのとおりになりました。パンを与えると言われると、その通りになったのです。

 主を信じ、しっかりとその御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、弱い私たちを顧み、絶えず憐れみと慈しみをもって導いてくださり、感謝します。私たちの日常生活のあらゆる必要を満たしてくださる主に信頼し、御言葉に聴き従う生活を通して、主の愛と恵みの証し人とならせてください。 アーメン






9月15日(金) 出エジプト記15章

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて」 出エジプト記15章25節

 葦の海を通ってエジプトの軍勢から救われたイスラエルの民は、心から主を賛美します(1節以下)。2節に、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」と詠われていますが、これは、詩編118編14節やイザヤ書12章2節にも、同じ賛美の言葉が記されています。

 まず、「主はわたしの力」とは、主が私と共におられて力となってくださるということであり、主が味方してくださったということを言い表しています(ローマ書8章31節)。それは、聖霊に満たされ、力を受けることと言ってもよいでしょう(使徒言行録1章8節)。

 次に、「主はわたしの歌」とは、主が歌を授けてくださったということですが、主は「イスラエルの賛美を受ける方」(詩編22編4節)であり、口も利けないほどに圧迫されていた者に、主を賛美する歌を歌えるようにしてくださったということでしょう。使徒言行録3章には、生まれつき歩くことの出来なかった者が踊りながら神を賛美するようになったという記事があります。

 エフェソ書5章18,19節に「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と言われていますが、聖霊が、お互いに語り合う歌、そして主へのほめ歌をお与えくださるということです。

 それから、「主はわたしの救い」とは、彼らが主によってエジプトの苦しみから救われたことを言うのですが、上記のとおり、詩編やイザヤ書にも同じ歌が歌われるということは、主なる神がイスラエルの民を様々な苦しみから解放し、繰り返し救いを与えられるという経験をしたこと、それにより、主はどんな時にも救いをお与えくださるお方であるという信仰表明の言葉になっています。

 過越という災いによってエジプトを脱出し、葦の海の奇跡によってエジプト軍から救われ、歓喜の歌を歌ったイスラエルの民は、意気揚々とシナイ山への旅を進めます。けれども、そこに一つの問題が生じました。それは、3日間、飲み水が得られなかったということです(22節)。

 そして、マラで泉を見つけましたが、その水は苦くて飲めませんでした(23節)。そもそも、「マラ」とは、苦い、苦しいという意味なのです。ルツ記1章20節の「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っているのも、この「マラ」です。

 飲み水がなくて不満がたまっているところに、見つけた水が苦くて飲めないということですから、当然のように民は「何を飲んだらよいのか」と不平を言います(24節)。イスラエルの民はシナイの荒れ野で40年を過ごします。水の問題は、決して小さな問題ではありません。

 このとき、民は「主はわたしの力、わたしの歌、わたしの救い」と歌うことを忘れています。文句を言うのが当たり前ということになっているのです。なかなか、「どんなことにも感謝する」(第一テサロニケ1章18節)ということが出来ません。

 つまり、力も歌もそして救いも、イスラエルの民自身が所有しているのではなくて、まさに主こそが「力であり、歌であり、救い」なのです。主とつながっていなければ、何も出来ないわけです(ヨハネ福音書15章5節)。

 モーセが主に助けを求めて叫ぶと、主は一本の木を示されました。モーセがそれを取って水に投げ込むと、なんと苦い水が甘くなりました(25節)。飲み水が与えられました。飲めなかった水が飲めるようになったのです。民はようやく一息つくことが出来たのです。

 中世以来、主が示されたという「一本の木」は、キリストの十字架を象徴するものだと解釈されて来ました。それを仄めかす言葉があるわけでもありませんが、歩けなかった者を力づけて立たせてくださる主、物の言えなかった者に歌を賜る主は、私たちのために十字架で死んでくださった主であり、その死を打ち破って三日目に甦られた主です。

 苦しみを喜びに変えてくださる主を自分の人生にお迎えするという意味で、木を十字架と解釈することは意義のあることでしょう。

 そして、民は「掟と法を与えられ」(25節)、主の御声に聞き従って歩むと(26節)、12の泉があり、70本のなつめやしの茂るはエリムに到着しました。これは、主イエスがヨハネ福音書7章38節で語られた、聖霊の恵みを示しているようです。イスラエルの民は、荒れ野の苦しみを経て御言葉に聞き従うことを学び、そうして霊の豊かな恵みに導き入れられたのです。

 主よ、私たちの人生のいたるところにマラの泉があります。否、私の心の内にマラがあります。しかし主の十字架が示されるとき、マラがナオミとされること、主が私の力、私の歌、私の救いとなられたと歌うことが出来るようにしてくださることを、心から感謝します。 アーメン





livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート
  • 9月17日(日)主日礼拝説教
  • 9月17日(日)主日礼拝案内
  • 9月10日(日)主日礼拝説教
  • 9月10日(日)主日礼拝案内
  • ペシャワール会・中村哲 講演会
  • 9月3日(日)主日礼拝説教
  • 9月3日(日)主日礼拝案内
  • ルター宗教改革500年記念講演会
  • 9月の御言葉
  • 8月27日(日)主日礼拝説教
  • 8月27日(日)主日礼拝案内
  • 8月20日(日)主日礼拝案内
  • 第50回 平和記念日集会
  • 8月13日(日)主日礼拝説教
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ