風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

6月25日(日)主日礼拝説教

6月25日(日)主日礼拝には、教会員14名、来賓11名(子供3名を含む)がおいでになりました。
感謝です。

礼拝後、信徒会を行いました。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「御心ならば」
聖書 ルカ福音書5章12~16節


教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。


6月25日(日)主日礼拝案内

02
6月25日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、ローマ書から聖書の学びと交わりをしています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書5章12~16節から「御心ならば」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。





















 

6月24日(土) ヨハネ黙示録4章

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、神の高貴さを表しています。

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに呼応していると見ることが出来ます。

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の推奨に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下に七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という節などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン





6月23日(金) ヨハネ黙示録3章

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3章20節

 14節以下は、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)の7番目、「ラオディキアにある教会」(14節)に宛てて書き送られた手紙です。

 ラオディキアは小アジア西部,フリギア地方の主要都市の一つで、フィラデルフィアの南東70㎞、エフェソ東150㎞に位置する、メアンデル川の支流リュコス川に面した町です。リュコス流域には、コロサイ(東約15㎞)とヒエラポリス(北約10㎞)があります。

 紀元前3世紀半ばにアンティオコス2世セオスが、それまでディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町をヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオディキアと改めました。「ラオディキア」とは、「ラオス」(民)と「ディケー」(正義)を合わせた「国民の正義」といった意味になります。

 ヨセフスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフリギア、リディア地方に移住させました。ラオディキアの町にもかなりのユダヤ人が住むようになったと考えられます。紀元前1世紀には、この地方のユダヤ人は宗教の自由が保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていたようです。

 一時ペルガモン王国の支配下に移りましたが、紀元前133年以降ローマの支配下に入り、エフェソからシリアへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展しました。また、ラオディキアは金融都市としても知られ、その経済力は、紀元前60年の大地震で町が崩壊した時、他の町のように皇帝の援助を受けず、市民だけの富で復興したほど豊かでした(17節参照)。

 黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(18節参照)、また、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フリギアの粉末」と呼ばれる目薬でもよく知られていました(18節参照)。

 ラオディキアの教会のことについては、コロサイ書2章1節、4章12~16節に既に言及されています。それによれば、コロサイ教会と同様、エパフラスという人物の特別な関心の対象となっています。同1章7節によれば、エパフラスがコロサイ教会の創設者であることが分かります。とすれば、ラオディキアも、エパフラスによって創立された可能性が小さくないでしょう。

 パウロがラオディキアの教会に手紙を書いていますが(同4章16節)、それが現在のエフェソの信徒への手紙のことであると考える学者もいます。ただ、黙示録のエフェソにある教会が、パウロによらず、ヨハネの指導によって立てられたと考えられるように、ラオディキアにもパウロやエパフラスたちの働きによらない、ヨハネによる教会があったとあったと考えてよいでしょう。

 ラオディキアには4世紀までフリギアの司教座がおかれていましたが、中世に入ってイスラムとの戦いで破壊されました。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)がラオディキアに当ると考えられています。

 7つの教会に宛てて記された手紙には、語り手を紹介する言葉に続いてそれぞれの教会を賞賛する言葉が添えられていますが、ラオディキアだけは例外で、「わたしはあなたを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16節)と言われます。

 ラオディキアの信徒の信仰の「なまぬるさ」に失望したという表現です。そのなまぬるさは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と言われるほどです。生活の上で不足がないことに満足して、霊的なこと、信仰のことが全く分かっていないというのです。

 冒頭の言葉(20節)は、キリスト教会の集会などでは、まだ信仰の道に入っていない方々に、主イエスを信じましょう、主イエスとの親しい交わりに入りましょうと勧める言葉として、よく読まれます。しかし、この言葉は、ラオディキアにある教会の信徒たちに向かって語られているのです。これは、どういうことなのでしょう。

 「戸を叩く」のは、受け入れることを求める意思表示ですが、ここでは、キリストが再臨される合図のことでしょう。「食事を共にする」とは、最も親密な交わりの表現です。キリストが、その声を聞いて従う者たちと食事を共にするという約束が与えられるということは、やがて来るべき栄光の座に、キリストと共に座に就くことが出来るという約束にほかなりません。

 ここで重要なことは、再臨されるキリストの声を聞き分けて戸を開くことが出来るよう、常日頃から備えておくことです。言い換えれば、忠実な信仰生活を守り続けることが重要だと言われているのです。となれば、「戸を開く」というのは、再臨されたキリストを迎え入れる行為ですが、再臨を待ち望みながら忠実な信仰生活を送ることを、そう表現しているということでしょう。

 その備えとして、「火で精錬された金」、「身に着ける白い衣」、「目に塗る薬」をキリストから買うようにと勧告されています(18節)。これは、17節に挙げられたラオディキアの人々の問題を、神によって解決するためのものです。

 神から離れてどっちつかずの生ぬるさの中にいては、自分の姿をはっきりと知ることが出来なくなります。自己満足と怠惰の中に眠り込んでしまいます。だから「熱心に努めよ。悔い改めよ」(19節)と言われるのです。

 再臨される主を待望することを忘れ、戸を叩いておられる主の御声が分からず、扉を開き損なった者は、やがて天の扉が閉ざされるとき、締め出される者となってしまいます。絶えず目覚めて主の御声を聴き、悔い改めて主の御言葉に聴き従いましょう。主との親しい交わりのうちに、主の祝福が注がれてきます。主に栄光を帰し、御名を高らかに賛美しましょう。

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみを心から感謝します。戸を叩かれる主の御声を聞き逃すことがないよう、日々あなたの御言葉に耳を傾けます。聖霊の導きのもと、御言葉の恵みを味わいます。そして、祈りと賛美をささげます。弱い者ですが、主を知る者とされたことを喜び、その恵みを証しし続ける者とならせてください。 アーメン




6月22日(木) ヨハネ黙示録2章

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が記されています。これは、ヨハネの指導している教会が七つあり、そして、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)と命じられていました。

 ラオディキアのそばにコロサイの町があり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。その点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロの教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという節もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。ヨハネにとって、アジア州の七つの教会が彼の指導するすべてであり、それでこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる賞賛の言葉が記されます。

 次に「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアには、叱責の言葉がありません。

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。だから、スミルナとフィラデルフィアにはこれがありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされたのを、紀元前290年頃、アレキサンダーの後継者リュシマコスにより現在の位置に再建されました。

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなどローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から忠実な同盟国としてその保護を受けていました。公共建築物、医学、科学などが栄え、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。そして、皇帝を拝まない者は不忠者として迫害されたのです。キリスト者にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」というのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 「恐れてはいけない」と言われるのは、そう言われる主イエスが、常に私たちと共にいてくださるからです。怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を覗き込む子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与え下さる主イエスの言葉です。

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌスの時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出して下さらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがよい香りを放つためであるということが示されます。

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 主よ、黙示録の御言葉を通して、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも主の御言葉に固く留まり、苦難を恐れず命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン



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