風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

7月23日(日) 創世記11章

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記11章9節

 洪水の後、箱舟を出たノアの子孫たちは、世界全地に広がって行きました(9章19節)。ノアの息子ら、その子孫は、それぞれの地に、言語、氏族、民族に従って住むようになったと、10章5節、20節、31節に記されていました。どのように氏族、民族が別れ、違う言語で話すようになったのか、その原因を説明しているのが、1節以下の段落です。

 1節には「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と言われています。「同じ言葉を使って」は「ひとつの唇(サーファー・エハート)」、「同じように話して」は、「同じ(ひとつの)言葉(ドゥバリーム・アハディーム)」という言葉遣いです。どこでも同じ言葉で話していて、思いを通わせ合うことが出来ます。

 2節に「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とあります。「シンアルの地」とは、10章10節の「彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」という言葉からも、メソポタミア平野南部から中風にかけてのバビロニア地方を意味するヘブライ語の表現と考えられます。

 いずれにせよ、シンアルの地に住み着いた人々は、「れんがを作り、それをよく焼こう」(3節)といって、素焼き煉瓦造りを始めます。パレスティナでは、建築に石材や木材を用いますが、メソポタミアでは、石材や質のよい木材に恵まれなかったので、煉瓦を作っていました。

 紀元前4千年から1千年間は、粘土を乾燥させただけの日干し煉瓦を使っていましたが、紀元前3千年ごろ、粘土を焼いて素焼き煉瓦を作るという技術が生み出されて、壁の内部には日干し煉瓦を用い、素焼き煉瓦はそれを保護するために用いられたようです。そして、漆喰の代わりに、大量にあるアスファルトを用いられました(3節)。

 紀元前3千年ごろといえば、ジグラットと呼ばれる塔が造られるシュメール・アッカド時代にあたります。ジグラットとは、アッカド語で「高いところ」を意味しているそうです。ジグラットの最上部には月神ナンナルを祀る神殿が載せられています。ジグラットは、神が訪れる人工の山として建造され、そこで人が神と出会うことが出来ると考えられていました。

 4節に「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」と記されています。高い塔を建てる目的は、名声を得て、全地に散らされることのないようにするということでした。

 シンアルの地に住み着いた人々が「東の方から移動してきた」理由が、より有名な強い民に追い払われた結果だとすると、この地から余所に移動させられずにすむように、堅固な町を建てたいという願いは、分からないではありません。

 ここで「天まで届く塔」を建てるのは、外敵から町を守るためであり、それがどこよりも高い塔であれば、それを建てた人々の威信を内外に示すことが出来ると考えたわけです。その意味で、ここに示されているのは、所謂「ジグラット」のような宗教施設ではありません。

 けれどもそれは、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(9章7節)と言われた主の御命令に背くことになりました。また、自分たちの力を周囲の人々に誇示しようとすることは、他の人々よりも自分たちを上に置き、神に近い存在として「ジグラット」を造りたいと考える傾向を示しているとも言えるでしょう。

 主なる神は、高い塔のある町を建てようとしている人々の振る舞いを御覧になるため、天から降って来られます(5節)。勿論、申し上げるまでもないことですが、主なる神は、天から降って来られなければ、人間のしていることが分からないような、近視眼的なお方ではありません。

 これは、天まで届く塔のある町を建てて名をあげようと考えている人々に対し、天は途方もなく高いところにあり、一方、人間の業はあまりにも小さいので、それを見るために近寄って来る必要があるという、ある種の皮肉を、ここに込めているわけです。

 皮肉と言えば、高い塔が石造りではなく煉瓦で築かれるというのも、弱くて不十分なものであると言おうとしているということも出来るでしょう。2年前のトルコ東部地震では、煉瓦積みの家の崩壊で犠牲となった方が多くあったと報道されていました。

 塔を建てようとしている人々の振る舞いをご覧になった主が「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と言われました。

 一つの民で、一つの言葉を話しているから、何を企てても、妨げることができないということで、一致の大切さ、その力強さを教えられます。それは、主なる神ですら妨げられないことだというのです。人々はそれを知っており、一致が乱され、全地に散らされることを恐れます。自分たちの名をあげたいという野望が妨げられてしまうからです。

 主なる神は7節で、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、それを実行されました。その結果を言い表しているのが、冒頭の言葉(9節)です。

 人々は、同じ言葉を話しながら、素焼き煉瓦とアスファルトを得て、天にまで達する高い塔のある町を建てようとしました。しかし、主によって言葉が乱され、話が互いに通じ合わなくなって、町が建設出来なくなりました(8節)。それで、その町は「バベル」と呼ばれるようになったと説明されます。

 「バベル」とは、「バビロン」の古い名前で、バビロニアの言葉で「神の門」という意味です。しかし、ここでは「混乱」を意味する「バラル」という言葉に由来する名前だと紹介されています。これは、アダムとエバが、神のようになろうとして禁を犯した結果、神との関係が壊れ、夫婦関係もおかしくなったことを思い出します。

 人がいかに高い技術や知識を獲得し、それによって神のようになろうとしても、実際に神の門に到達することなど出来ないのです。恐怖心で人の心を縛り、一つになって突き進んでいるつもりでも、そこにはしかし、混乱しかないのです。

 言語が混乱させられたというのは、今まで日本語を話していた人が急に英語を話し始めたというような、全く違う言語に変わったということでしょうけれども、あるいは同じ日本語を話していながらも、自分の考えに固執しているため、相手の話が全く理解出来ないという事態を示しているのかも知れません。

 言葉が乱されて、思いの通じなくなった人々は、町を建てることが出来ず、そこから全地に散らされて行きました。しかしながら、全地に広く散らされて行くこと自体は、刑罰などではありません。そもそも神は「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と命じられていたのであり、それが実行されたということだからです。

 とはいえ、互いに言葉が通じない、きちんとコミュニケーションが出来ないというのは、多くの問題を生じさせます。背き合うことを、聖書は「罪」と言います。罪のゆえに、私たちは神の恵みを失い、その栄光を受けることが出来なくなってしまいました(ローマ書3章23節)。

 ゼファニヤ書3章1,2節に「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった」と言われ、そのため6節で「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ、人影もなく、住む者もない」と告げられています。

 ところが9節には「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える」と預言されています。罪と罰が宣告された後、神は救いを用意されるということですが、諸国の民がかつてのように「一つとなって主に仕える」と言われています。

 私たちは、聖霊の働きによってイエスを救い主、主と信じる信仰に導かれました。信仰によって私たちには永遠の命が授けられ、神の子どもとされる特権に与りました。神に対して「アッバ」、お父ちゃんと呼ぶ資格が与えられたというのです。それは、私たちの功績によって獲得したなどというものではありません。主がお与えくださった恵みです。

 聖霊は私たちを祈りに導きます。どう祈ればよいか分からない弱い私たちのために、呻きをもって執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。それによって、どんなマイナス状況をもプラスに変えてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は私たちに、主の恵みを証しする力を与えてくださいます(使徒言行録1章9節)。常に主を仰いで祈りましょう。そして、聖霊に満たされた主の証人にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの家庭や地域、国の至るところで、御言葉が語られ、その権威が回復しますように。国の指導者たちが、主を畏れ、主に仕える真実な心と考えをもって、国の将来に資する正しい政治を行うことができるよう、上よりの知恵と力を与えてください。私たちを聖霊に満たし、主の恵みを証しする力を与えてください。 アーメン






7月23日(日)主日礼拝説教

7月23日(日)主日礼拝には、教会員14名、来賓10名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。

礼拝後、信徒会を行いました。


主日礼拝のの説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「恵みに生きる」
聖書 ルカ福音書5章33~39節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。
 

7月23日(日)主日礼拝案内

02 7月23日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、今月より、創世記から聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書5章33~39節から「恵みに生きる」と題して説教を頂きます。

礼拝後、信徒会を行います。


7月22日(土) 創世記10章

「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」 創世記10章32節

 10章には、ノアの息子たち「セム、ハム、ヤフェトの系図」が記されています。その最後に冒頭の言葉(32節)のとおり「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た」と語られています。ノアの子孫が全世界に増え広がって行ったわけです。

 それは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(9章1節)と神がノアたちを祝福してくださった結果です。ということで、この系図は、すべての民族が一つの家系から出たということを表わしているのです。

 ノアの三人の息子たちの系図について、ヤフェトの子孫(2節以下)は、パレスティナ北方並びに地中海沿岸の国々に広がっています。ハムの子孫(6節以下)は、パレスティナの南方の国々に広がっています。セムの子孫(21節以下)は、「エベルのすべての子孫の先祖」と記されています。

 「エベル」とは、ヘブライ人(イブリー)を指していると思われます。もともと「渡って来た」という言葉で、海や川の向こう側から移住してきた人々を意味します。地域的には、パレスティナ東方に広がっています。また、「セム、ハム、ヤフェトの系図」と言っておいて、セムが最後に取り上げられています。これは、セムの系図が最も重要なものであることを示しています。

 とはいえ、目につくのは、ハムの系図です。一番大きな分量を占めています。特に、ニムロドに注目させています。彼は「地上で最初の勇士となった」(8節)、「主の御前に勇敢な狩人であり」(9節)と言われます。動物を屠って食べることが許されて(9章3節)、狩人を生業とする者が登場したわけです。

 ただ、「最初の勇士」、「勇敢な狩人」で連想されるのは、猛獣と戦って町を守るという人物像です。町を守る者というイメージは、やがて「王」を示すようになります。10節に、「彼の王国の主な町は」と記されているように、ニムロドは彼の王国の権力的支配者となっています。

 ニムロドの出身地クシュはエチオピアを指していますが、支配地域は、「シンアルの地」(10節)、即ちバビロニアです。そこから、「アッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた」と言われます(11,12節)。これは、歴史的な事実というよりも、イスラエルを苦しめた存在として、エチオピヤやバビロン、アッシリアなどの名が挙げられているのです。

 ニムロドに、「主の御前に勇敢な狩人」という形容詞がつけられているのは、アッシリア、バビロンの王がイスラエルを苦しめるのが、主の御心という表現だと考えると、大変興味深いところです。それは、シンアルの地が、11章でバベルの塔の物語と結び付けられているからです(10節、11章2,9節参照)。

 6節に、ハムの子孫として「カナン」の名が挙げられています。民族的には、カナンはセムの中に入れられるべきですが、カナンがエジプトの支配下に置かれていたということや、イスラエルと覇権を巡って争っていたこと、特に、カナン人のバアルやアシュラという異教の神礼拝がイスラエルの純粋な信仰を迷わせたという点で、イスラエルを苦しめたハムの子孫のグループに入れられたのでしょう。

 21節に、セムが「ヤフェトの兄であった」と記されています。敢えてハムの兄であることが伏せられているのは、9章20節以下の出来事、ノアによる呪いが関係しているのでしょう。それ以外に注目すべき点はありません。

 11章10節以下のセムの系図に「アブラム」(26節)が登場して来ます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ福音書3章9節)と言われますが、確かに神は、血筋や能力などではなく、恵みによっておのが民を選び、イスラエルを作り出されたのです。そして、その恵みによって、私たちも選ばれたのです。

 神は、洪水によってすべて完璧になったとは言われませんでした。洪水の前も後も不完全なまま、人は幼いときから心に思い図ることは悪いことばかりと言われたのです(8章21節、6章5節)。しかし、そこに慈しみ深き主なる神がおられ、私たちに恵みを与えていてくださいます。不完全な、ただの人である私たちを選び、キリストの教会を建て上げるために用いてくださいます。

 私たちが住んでいる町とその周辺、私たち信徒一人一人が置かれている家庭や職場、学校、地域が、私たちの宣教の最前線です。主イエスは、世界宣教のために宣教師を海外に派遣されたように、私たちをこの静岡周辺の宣教のために選び立てておられます。家族の救いのため、近隣への伝道の進展のために祈りましょう。

 命が親から子へ、子から孫へとつながれていくように、永遠の命、信仰の恵みも、主によって人から人へとつなげられていきます。そうした営みの背後に、世界宣教を祈る世界中の人々の祈りがあって、至るところに実を結んでいるのです。

 私たちも常に主を仰ぎ、共に御言葉に耳を傾け、御霊の力を受けて、主の教会を建て上げる働きのために熱く祈り、自らを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげて参りましょう。それこそ、私たちのなすべき霊的な礼拝だからです(ローマ書12章1節)。

 主よ、セムの子孫としてアブラハムが生まれ、ダビデが生まれ、ダビデの子孫としてキリストが世に来られました。すべてが主の深い憐れみによるものでした。私たちも恵みによって救いに与り、神の民として頂きました。聖霊に満たされ、その力を受けて、主の証人としての召しにふさわしく歩み、この地にキリストの教会を建て上げる働きのため用いてくださいますように。 アーメン





7月21日(金) 創世記9章

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約に心を留める。」 創世記9章16節

 箱舟を出たノアとその家族が祭壇を築いて供え物をし(8章18節)、その香りをかいで「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(同21節)と言われた主なる神が、更に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(1節)と祝福されます。

 これは、神が最初に人を創造されたときに祝福して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)という言葉とほぼ同じです。ここに神は、洪水後、世界を改めて祝福され、神の御旨にかなう、「極めて良かった」(1章31節)と評価される世界を再創造され、その地で人々が、産まれ、増え、地に満ちることを神が望んでおられるということになります。

 続いて、「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(2,3節)と語られます。

 かつて人と動物に与えられていた食物は、木の実や青草だけでした(1章29,30節)。肉食は許されていませんでしたが、ここでは肉食が許され、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(3節)と言われています。

 それでも、「ただし、命である血を含んだまま食べてはならない」(4節)と、注意書きが記されています。この箇所を岩波訳では、「肉は命あるまま、すなわち血のまま、食べてはならない」と訳しています。つまり、血は命そのもの、命は血の中に宿っていると考えられているのです。

 申命記15章23節にも「ただし、その血を食べてはならず、水のように地面に注ぎ出さねばならない」と記されています。1章24節によれば、神は動物を地から造られました。そこで、屠られる動物の血は、大地に戻されるのです。

 また、レビ記17章11節には「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。血は命そのものなので、屠られた動物の血を神に献げることで、それを献げた人の贖いをしているというわけです。

 ですから、動物の血を飲むことは許されませんし、人の血を流し、命を奪うことも、勿論許されません。5節に「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」と言われます。

 続く6節でも「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と言われています。これは、人の命が神のものであり、神にかたどって造られているから、不可侵なのであり、エデンの園の善悪の知識の木の実を食するのが禁じられたのと同じく、神の主権に関わる事柄だということです。

 こうした言葉に続いて、神は8節以下に契約の言葉を告げられます。6章18節で「わたしはあなたと契約を立てる」と言われていました。ここに来て、その調印が行われるのです。

 「契約」というのは、ヘブライ語の「ブリート」という言葉です。これは、「結ぶ、定める」という動詞から出て、足かせや軛などの意味となり、対人関係における約束を示す言葉になりました。

 契約の内容は11節に「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と記されます。これは、神がノアとその家族を初めとする、人類の保護を約束したものです。神に対するノアたちの忠誠などは、ここに求められてはいません。神が一方的に宣言された契約ということです。

 13節で神は「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われました。虹は、神と私たちの間に契約が結ばれたという証拠、契約書に押された証印のようなものでしょう。

 ご承知のように、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と考えられていますが、これは、物理学者ニュートンの虹の研究に由来するものです。イギリスでは、虹の基本色は「赤、黄、緑、青、紫」の5色と考えられていましたが、ニュートンは柑橘類のオレンジの橙色と植物染料インディゴの藍色を加えて、7色としました。

 勿論、虹の色は無段階に変化しています。色の種類は無限にあるわけです。そのことをニュートンも知っていましたが、それにも拘わらず、虹を7色としたのは、7が神聖な数、聖書における完全数だからだそうです。音楽のオクターブも、ドレミファソラシの7音からなっています。ニュートンは、虹の美しさを、七つの基本色から出来ているその神聖さ、完全さによるとしたわけです。

 ところで、「虹」は原語でケシェットと言います。ケシェットは、本来「弓矢」と訳される言葉です。創世記21章16節では「矢」、27章3節、48章22節、49章24節では「弓」と訳されています。つまり、虹は神の武器なのです。だから、神は、「わたしの虹」(13節)と言われています。英語で「レインボウ(雨の弓)」というのは、この箇所に由来しているのかも知れませんね。

 神はここで、御自分の武器である弓を、雲の中に虹として置いて、和解のしるし、契約のしるしとされ、二度と大地を洪水で滅ぼすことはしないと約束されたのです。神の武器は、人の手の届かない雲の中に置かれています。この宣言によって、神の恵みは常に人の意志に先行していることを示しています。

 冒頭の言葉(16節)に「永遠の契約」と記されています。二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない(11節、8章21節も)という約束が、永遠のものであるということです。

 8章22節に「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と言われていました。春夏秋冬、一年365日、神が再構築された天地は、再びリズムを取り戻して、夕となり朝となる毎日のリズムが繰り返されるのです。

 雲が湧き、雨が降り出すことがあるでしょう。川が溢れるようになることがあるかも知れません。しかし、それで地が裁かれ、滅ぼされるということはありません。雲の上には太陽が照っており、やがて虹を見せるのです。

 そして、「虹が現れると・・・永遠の契約に心を留める」(16節、14,15節も)と言われています。虹が現れる度に、私たちに神との契約を思い出せと言われているのではありません。神が永遠の契約に「心を留める」(ザーカール:覚える、思い起こすの意)と言われているのです。それはどういうことでしょうか。

 神が虹を見て契約に心を留められるのは、当然のことながら、神が忘れっぽいので、虹を見て契約を確認するということではありません。箱船のノアたちに「心を留め」(ザーカール)、それで水が引き始めたように(8章1節)、心に思うことは幼いときから悪いと言われる私たちを神が忍耐し続け、深い憐れみと慈しみの心で愛し、恵みを与え続けるため、虹を見るようにするということです。

 その上、永遠の契約は、「地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた」と言われています。ノアとその家族だけでなく、人類だけでもなく、すべての生き物との間に立てられました。人がした悪で滅びを招いた自然界の生きとし生けるものに対して、契約を立てて、人の悪のゆえに洪水をもって自然界を滅ぼすことは二度としないと言われているのです。

 悪をなす人に対し、神はその悪に悪をもって報いるというのではなく、御自分の武器を放棄し、世界の平和を守り、人に恵みをお与えくださいます。私たちは、その恵みを携えて全世界に増え広がるよう、神に祝福されているのです。

 その精神が日本国憲法第9条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文に見事に言い表されているといえるのではないでしょうか。

 世界中の国々が、この条文をその憲法に書き込めば、世界から戦争をなくすことが出来るでしょう。やがて、戦争が野蛮な行為として、国際的な法律で断罪される時代を迎えることが出来るように、神の導きと助けを祈りたいと思います。

 そのために、私たちも契約のしるしである虹を見て、主が私たちにお与えくださった恵みに心を留め、喜びと感謝の賛美と祈りを捧げながら、愛と赦しに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。私たちは主の御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御霊の導きに与り、心から御名を崇めます。聖霊に満たされて、主の証人としての務めを全うすることが出来ますように。 アーメン






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