風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

11月16日(木) 民数記10章

「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目であって、それはあなたたちが代々にわたって守るべき不変の定めである。」 民数記10章8節

 イスラエルの民は、いよいよ約束の地カナンに向かって進軍を始めます。「シナイ出発」(11節以下)について、「第二年の第二の月の二十日のことであった」(11節)と言われています。

 エジプトを脱出したときを記念して第一年の正月としたので(出エジプト記12章2節)、それからこれまで1年余りが経過しています。また、シナイの荒れ野に到着したのが3月1日でしたから(同19章1節)、あと11日で丸一年そこに留まっていたということです。

 「エジプトの国を出た翌年の第二の月の一日」(1章1節)に、人口調査が命じられました(同2節)。そして、全軍の宿営の配置、進軍の際の配置が決められました(2章)。
その配置に従い、ユダ族から出発します(13節以下)。

 その際、モーセは「義兄にあたるミディアン人レウエルの子ホバブ」(29節)に動向を求めます。ミディアン人は荒れ野に住む民族なので、荒れ野を旅する際の専門知識や約束の地カナンを目指すための道案内を願ってのことでしょう(31節)。

 最初、ホバブはそれを拒みますが(30節)、「一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします」(31節)というモーセの約束の言葉に、肯定的に応じたものと思われます。士師記1章16節、4章11節に、ホバブの子孫がイスラエルの民と共に約束の地カナンに住んでいることを述べているからです。

 「義兄にあたるミディアン人レウエルの子ホバブ」(29節)について、原文は「ホバブ、レウエルの子、ミディアン人、モーセの義父」とあって、ホバブがモーセの義父だといっていることになります。新共同訳は、「義父」(ホーテーン)を「義兄」(ハータン)と読み替えているのです。

 なお、出エジプト記2章16,18節によれば、モーセの義父はミディアン人の祭司レウエルですが、同3章1節、18章1,2節では名はエトロです。同4章18節では「エトロ」とされていますが、原文では3章1節などとは単語が異なっています。どう考えたらよいのか、正確なところは全く分かりません。

 主なる神は、シナイを出発し、荒れ野を旅する準備として、モーセに銀のラッパを2本作らせます(2節)。それは、音色の違うもの、つまり長さや大きさの違うラッパだったと思われます。音色が違っていなければ、二本ともが吹かれているのか、一本だけなのか、区別が難しいからです。

 というのは、二本とも吹かれれば民全体、一本だけだと部族の長である指導者が招集されることになっており(3,4節)、その区別がつかなければ、民は混乱してしまいます。

 そのような、民を招集するラッパとは別に、出陣ラッパもありました。それは、旅立ちのとき(5節)、また敵を迎え撃つときに吹かれました(9節)。召集ラッパと出陣ラッパの吹き方はどんなものであったのか、色々説がありますが、概ね、召集には長く1回、出陣には短く数回吹き鳴らされたということのようです。

 パウロが、「ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(第一コリント14章8節)と言っていることから、ラッパの吹き方やその音色について、当時の人々は訓練され、よく理解していたのであろうと思われます。

 また、パウロは民を招集するためのラッパを、最後のときの合図に用いられるとも記しています。第一コリント15章51節以下では、そのラッパが鳴ると、主にあって召された者は復活して朽ちない者とされ、そのときまで生きている者は、一瞬にして栄光の姿に変えられると言います。

 また第一テサロニケ4章16節以下でも、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られ、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、生き残っている者は空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられると言っています。

 黙示録8,9章では、七人の天使が吹くラッパで大きな災いが天地に起こります。しかし、「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった」(同9章20節)、「また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった」(同21節)と言われるので、その災いは、神の敵に対する攻撃、審判であったことが分かります。

 即ち、これらのラッパは単なる合図なのではなく、神の権威がそこに表わされていると見ることが出来ます。

 だから、冒頭の言葉(8節)にあるように、「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目」であり、「代々にわたって守るべき不変の定め」なのです。祭司たちは、神の御旨を知って民を集め、あるいは、旅立ちのラッパを吹きます。また、敵を迎え撃つ備えをさせます。

 特に、敵を迎え撃つ出陣ラッパは、主なる神に助けを求めるものでもありました。出陣ラッパが吹かれると、「主の御前に覚えられて、敵から救われるであろう」(9節)と言われています。主ご自身が立ち上がってくださり、イスラエルのために戦って勝利をお与えくださるというのです(歴代誌下13章12,14節)。

 「主の御前に覚えられる」という表現が、出陣のときだけでなく、祝日や毎月一日にささげる献げ物に向かってラッパを吹くというところでも用いられます(10節)。感謝のしるし、神を賛美するために吹かれるかのようです。

 そうしなければ、神が覚えてくださらない、忘れておしまいになるというのでしょうか。なぜそうなのか明言されていませんが、それは、イスラエルの民を子ども扱いはしておられないということでしょう。

 民の必要については、求められる前から神はご存知です(マタイ6章8節)。敵に襲われたとき、助けを必要としているでしょう。しかし、ラッパが吹かれ、助けが求められるまで、神は待っておられるのです。また、献げ物に感謝と賛美を添えること、即ち、心から感謝を込めて、賛美の心で献げ物をすることが求められているのです。

 さらに、私たちは本来、神に覚えて頂く資格も権利も持ち合わせていないということではないでしょうか。勿論神は、絶えず私たちに心を留めておられるでしょう。覚えていてくださるでしょう。むしろ、私たちの方が神を忘れ、その教えに背いてきたのです。

 調子のよい時には神を忘れ、自分勝手に歩んでいて、上手く行かなくなると、「私たちを覚えてくださらないのですか」と訴えるというのは、あまりに虫のよい話ではありませんか。

 その意味で、ラッパは神への悔い改めの祈りであり、祭司が民に代わって神の御前に謙り、憐れみを求めて吹かれるのです。神は、焼き尽くす献げ物などではなく、打ち砕かれ悔いる心を求めておられるのです(詩編51編19節)。

 主よ、御言葉を感謝します。私たちのことを手のひらに刻み、愛をもって髪の毛一本までも数えるほどに常に目を留めていてくださることを嬉しく思います。今、弱さの中にいる方々、痛み、苦しみを負っておられる方々を顧み、癒しと助け、慰めと平安をお与えください。互いに助け合う心を導いてください。御心が地の上に行われますように。私たちを御言葉と聖霊をもって清め、整え、主の御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン



11月15日(水) 民数記9章

「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。」 民数記9章15節

 エジプトを脱出した翌年の正月に、主がモーセに過越祭を祝うように仰せられ(1節以下)、イスラエルの民はモーセにそれを命じられるとおり行いました(4,5節)。二度目の過越が実施され、シナイを出発することになります(10章11節以下)。

 しかしながら、死体に触れて汚れとされた人々が、過越祭から除外されることに異を唱え(6,7節)、一ヶ月後の2月14日にそれを行うことになりました(10節以下)。こうした規定を設けられたこともあり、過越祭を祝わず、定めの献げ物をしなかった者は、自分の民から断たれることになりました(13節)。

 過越の出来事の後、イスラエルの民はエジプトを急いで出たのですが、二度目の過越の際、一ヶ月後に過越祭を祝うことになったため、シナイを出発するのは、2月20日ということになったわけです(10章11節)。

 冒頭の言葉(15節)に「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った」とあります。これは、エジプトを脱出した翌年、即ち第2年の正月一日のことで(出エジプト記40章17節)、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」(同34節)と報告されていました。

 この雲は、神がイスラエルを導いている、神の導きをあらわす徴です。イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、神は雲を使って導かれました。出エジプト記13章に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き」(同21節)とありました。雲が柱のように立ち、その雲の柱が動いて民を導いたというように書かれております。

 雲はまた、神がそこにおられるという徴です。神が確かにおられるという証拠なのです。最初にモーセが山の上で神様とお会いしたとき、神がそこに降って来られると、雲が山全体を覆ったと書かれております(同19章9,16,17節)。シナイ山に下られた神が、幕屋にあってシナイを出立する民と共に行動されるということを、ここに改めて示されたのです。

 幕屋はヘブライ語で「ミシュカン」と言います。これは、「シャーカン=住む、天幕を張る」という言葉から来ています。シャーカン、ミシュカンという言葉から、シャキナーという言葉が出来ました。「栄光」というように訳されます。幕屋を覆う雲の内に神がおられ、栄光が満ちたという表現です。

 第三に、雲は私たちを守るものです。葦の海を渡ろうとするイスラエルの民と後ろから押し迫ってきたエジプト軍との間に雲の柱が立ち(出エジプト記14章19節)、真っ黒な雲が立ちこめました(同20節)。イスラエルの民に続いて葦の海に入ってきたエジプト軍を、主が火と雲の柱からかき乱され(同24節)、全軍が海の中に投げ込まれて、イスラエルの民は守られたのです(同27,30節)。

 しかし、現代の私たちには、雲が守るというのは分かりにくいことかも知れません。雲が私たちを覆ったらどうなるでしょうか。何も見えなくなります。高い山に登ると、実際に雲の中に入ることがあります。そうすると、まわり一面真っ白になります。霧というか、濃い水蒸気というか。ほとんど視界が利かない状態になります。

 神はあるとき、私たちを本当に何も見えない世界に導かれます。その何も見えない状態、何も出来ないような状況で、何をするか。見ることを奪われたら、私たちはどうするでしょうか。必然的に、当然のことながら、耳を澄まします。真剣に耳で聞くという世界が開かれます。心を澄まして、聞くことに集中します。

 イエス・キリストが、これから贖いの死を遂げるために十字架に向かって歩み始めるということを公表し始められてすぐ、三人の代表的な弟子たちを連れて高い山に登られました(マルコ9章2節以下)。主イエスが山に登って行かれると、次第に光り輝く栄光のお姿に変わり、そうして、いつの間にか、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っています。

 何が語り合われていたのかは分かりませんが、そこに居合わせたペトロは、「ここに小屋を三つ建てましょう」、いつまでもここに留まりましょうと語ります。大変興奮していて、自分でも何を言っているのか分からないという有様でした(ルカ9章2節以下)。ペトロがそう言っていると、雲が彼らを覆いました。何も見えなくなったのです。

 それで、わけが分からなくなったのでしょうか。そうではなく、もっとはっきりと分かりました。彼らはそこで神の声をはっきり聞いたのです。イエス・キリストが神の子、神の愛する子どもだから、この人に聞きなさい。大切なことを聞きなさい。何も見えなくてもよい。ただ、イエス・キリストから聞きなさい。そういう、信仰の最も大切な世界がそのとき、開かれたわけです。

 15節以下の段落で、「イスラエルの人々は主の命令によって旅立った」と三度記され、同様に、「主の命令によって宿営した」と三度言われています。

 主の御声を聞いて移動し、御声を聞いて停泊する。すべて主のご命令の通り。イスラエルの民は、確かにこの荒れ野の生活の中で主に聞き従うように、訓練されていきました。自分たちを守るものが何もないところで、御言葉に聞き従うことを学び、そして、神の御言葉は必ず実現するという恵みを味わったのです。

 私たちも同じように、主から呼ばれたら立ち上がり、行くべきところへ行き、留まるべきところに留まる。そして、なせと言われることを行う。それが、今私たちの導かれている信仰であり、神の恵みの世界なのです。

 主よ、常に御声をはっきりと聴くことが出来ますように。日毎に御顔を仰ぐことが出来るますように。絶えず私たちの信仰を整え、訓練してください。いつも共におられ、内におられる真理の御霊の導きに従い、主の御言葉を守ることが出来ますように。 アーメン




11月14日(火) 民数記8章

「わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。」 民数記8章18節

 7章に民の指導者たちが神の命令に従順に従って献げ物をしたことが記されていました。8章には、レビ人の従順さが記されます。

 1節以下には「燭台のともし火皿」について、5節以下には「レビ人の清めの儀式」について記述され、「モーセとアロンとイスラエルの人々の共同体全体は、主がレビ人についてモーセに命じられたとおり、レビ人に対して行った」(20節)と言われています。

 レビ人は、祭司に仕え、臨在の幕屋での奉仕や神の箱の運搬などの務めに当たります(3,4章)。レビは、ヤコブ=イスラエルの三男でした(創世記29章34節)。

 父ヤコブはレビについて、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」と祈っています(創世記49章5節以下)。

 それは、妹ディナのことでシケムの人々を殺し、町中を略奪するという事件を起こしたからです(同34章参照)。つまり、レビはとりたてて宗教的な人物であったわけではなく、むしろ、それとはほど遠い存在だったのです。

 レビの子孫にモーセとアロンがいて、レビ一族が神の幕屋で神に仕える仕事をする者とされたというのは、出エジプトの民が金の子牛像を造るという事件を起こした際(出エジプト記32章)、すべてのレビ人が主につく者としてモーセに従ったことから、呪いが祝福に変えられたのです(同29節)。

 彼らは一貫して主につく者であったわけではありません。彼らも事件を起こした民の一員だったのです。同3節に「民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た」と言われています。しかし、彼らは「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」(同26節)との呼びかけに応答しました。

 他の人々がそうしようとしなかったということは、金の子牛事件が主に背く行為であり、民はそれを自覚していたことを示します。その中で、レビ人はそれを悔い改めて、主に従う道を積極的に選び取ったわけです。それで、「今日、あなたたちは主の祭司職に任命された」と言われることになったのです。

 引退して帰国されていた米国人の元宣教師が再来日された際、福岡にいた私のもとを訪ねてくださったことがあります。彼女に「私が牧師になると思っていたか」と尋ねると、彼女ははっきり「いいえ」と答えてくれました。誰が牧師になると思っていたかと改めて尋ねると、長兄と次弟の名前を挙げました。その見方は、決して奇妙なものではないでしょう。誰もがそう考えたのかも知れません。

 私自身、子どもの頃には、自分が牧師になろうなどとは想像もしていませんでした。長兄は10年ほど牧師職に就き、その後辞任しています。次弟は牧師にはなりませんでした。神に仕える仕事をするのにふさわしい能力や資質、性格などがあるのではなく、どのような者でも、ただ神の呼びかけに素直に従うかどうかだという典型的な例ではないかと思います。

 神は17節で「イスラエルの人々の内に生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした」と語られていました。

 過越の時、エジプトの国の初子は、神の使いに打たれて死んだのに対し、イスラエルの長子は、その死を免れました(出エジプト記12章1節以下、29節)。彼らが神の命に従って小羊を屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗れと言われた主の命令に従ったからです(同3節以下、7節)。

 イスラエルの長子の身代わりとして、小羊が屠られたかたちです(同3節以下)。つまり、イスラエルの長子は、羊の命をもって贖われ、神のものとなったということです(同13章2節、第一コリント書7章22,23節参照)。

 そうして神は、イスラエルのすべての初子の身代わりにレビ人を選んでご自分のものとされ(3章12,13節)、それは、屠られて祭壇にささげられるというのではなく、生きて神に仕える者とされたのです。

 しかし、神に選ばれれば、それでよいわけではありません。そのままで役に立つものではないのです。神は「イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい」(6節)と言われました。そのために先ず、「罪の清めの水をふりかけ、身体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせ」ます(7節)。

 それから、雄牛二頭とオリーブ油を混ぜた小麦粉を献げ物としてささげ、贖いの儀式を行います(8節以下、12節)。そして、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し(13節)、イスラエルの人々から区別すると、彼らは主のものとなります(14節)。そうして初めて、臨在の幕屋に入って、作業に従事することが出来るのです(15節)。

 あらためて、冒頭の言葉で「レビ人」とは、私たちクリスチャンのこと、イスラエルとはすべての人々と読みましょう。それは使徒ペトロが、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っているとおり、そしてそれが、プロテスタントで語られている「万人祭司」ということだからです。

 私たちが選ばれたのは、それを誇るためではなく、すべての人々に神の恵みを報せ、またすべての人々に仕えて執り成し、祈りをささげるためです。絶えず主の前に進み、御言葉と祈りをもって主と交わり、その使命に励む者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちはあなたに選ばれる取り柄など持ち合わせていません。ただ、その恵みに感謝し、喜びをもってその呼びかけに応え、主にお仕えするのみです。私たちは不束な僕、端女にすぎませんが、御言葉と背入れによって私たちをふさわしく整え、御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン





静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
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④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
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御覧ください。

11月13日(月) 民数記7章

「モーセは神と語るために臨在の幕屋に入った。掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた。神はモーセに語りかけられた。」 民数記7章89節

 7章は、臨在の幕屋が完成した時点(出エジプト記40章、レビ記8章10,11節)に時計を戻し、まず幕屋と祭壇、その祭具に油を注いで聖別したと記されています(1節)。

 幕屋は出エジプトの第2年1月1日に立てられました(出エジプト記40章17節)。そして、民数記はそれから一ヶ月後の2月1日から始まっていました(民数記1章1節)。幕屋と祭壇、祭具、および祭司の聖別は、レビ記8章10節以下において行われています。

 ここでもう一度、そのことに触れることにより、荒れ野の生活といえども、否、荒れ野の生活だからこそ、神と交わるために、まず清められなければならないことを繰り返し思い起こさせるのです。

 モーセがそれらを聖別し終えると、イスラエルの指導者、家系の長たちが牛車6台と雄牛12頭を幕屋の前に引いて来ました(3節)。臨在の幕屋の作業に用いるためです(5節以下)。

 それから、指導者たちが一日に一人ずつ、祭壇奉献のための献げ物を持って来ます。12部族が献げ物をする順番は、宿営が設けられた際の部族の順番に倣っています(2章参照)。

 彼らがささげたのは、130シェケルの銀の皿一枚、70シェケルの銀の鉢一個、それぞれに穀物のささげ物としてオリーブ油を混ぜた小麦粉がもってあります(13節)。更に、香を盛った金の柄杓一つ(14節)。

 焼き尽くす献げ物として若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の小羊一匹(15節)。贖罪の献げ物として、雄山羊一匹(16節)。和解の献げ物として雄牛二頭、雄羊五匹、雄山羊五匹、一歳の雄の小羊五匹です(17節)。

 これらは、12部族が同じものをささげています。その意味で、最初の部族の献げ物を書いて、後の部族については、「以下同文」と言えばそれですむのに、わざわざすべての部族の指導者の献げ物を同いちいち記しているのは、すべての民が神の御前に平等であることを示しています。

 イスラエル12部族は、創世記においてヤコブの息子たちがヨセフに嫉妬し、亡き者にしようとしたことを皮切りに(創世記37章参照)、しばしば部族間の争いが引き起こされました。そして、部族間の不和が大きくなったとき、イスラエルは南北に分裂し(列王記上12章)、戦いを交えたことさえあります(列王記下16章5節など)。

 エズラ記、ネヘミヤ記にはバビロンからの帰還民とサマリア人との憎み争いが描かれています。旧約学者の中に、民数記=祭司資料を著述した人々は、捕囚からの帰還民およびユダの人々を北の諸部族出身の人々より優遇する分離主義者(エズラ、ネヘミヤの著者)の排他性に対する批判を書いていると主張する人がいます。つまり、イスラエル12部族の融和、和解は、積年の願いだったのです。 

 ここで、「献げ物」(12節:コルバン)とは、元来「近づく、進み出る」(カーラブ)という意味の言葉です。即ち、神に近づくため献げ物をするのです。イスラエルの民は、幕屋にあって自分たちと共に歩んでくださる神に近づくことを喜びとして、多くの献げ物をしたということです。

 そうして、冒頭の言葉(89節)のとおり、神と語らうためにモーセが臨在の幕屋に入りました。そのとき、神が「掟の箱の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から」、語りかけられました。「贖いの座」(カポーレト)とは「覆う」(カーファール)という意味です。私たちの罪を神が覆ってくださり、神との関係が正しく整えられたということです。

 「ケルビム」は、翼を持った半人半獣の神話的存在です。神が乗られ(サムエル記下22章11節)、また、その上に座しておられる(列王記下19章15節)という記述があります。つまり、贖いの座のケルビムは、神の臨在を示していると考えられます。献げ物をもって近づく民に神がご自身を現され、語りかけられました。そこに、親密な深い交わりが開かれたのです。

 私たちは、イエス・キリストを通して、神との新しい契約の関係に入りました。私たちには目に見える契約の箱はありません。臨在の幕屋も、目には見えません。しかし、それらのものは必要ないのです。それは、神は私たちの心に住み、石の板ではなく、私たちの心に契約の言葉を刻み込んでくださったからです(エレミヤ書31章33節)。

 また、御子イエスご自身が贖いの供え物となってくださいました(ヘブライ書7章27節、9章11,12,26節)。十字架がその祭壇です。キリストが十字架で息を引き取られたときに神殿の幕が真っ二つに裂けて、私たちが神に近づく道が開かれました(マルコ福音書15章38節、ヘブライ書10章20節)。大胆に神に近づくことが出来るようになったのです(同21節、4章16節)。

 そのとき私たちは何を携えて神の御前に出ましょうか。イスラエルの民が喜びをもって献げ物をしたように、喜びをもって賛美のいけにえ、唇の実をささげましょう(同13章15節)。

 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」という言葉もあります(ネヘミヤ記8章10節)。私たちが喜んで主を賛美するとき、主ご自身がそれを喜ばれて栄光を現してくださいます。そしてそれが信仰者にとって何よりの喜びではないでしょうか。

 「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」という言葉もあります(詩編51編19節)。主の前に謙った私たちの霊、つまり私たち自身を主が求めておられるのです。それはパウロが、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ書12章1節)と語っていることにつながります。

 それは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する生活です(第一テサロニケ5章16~18節)。主が私たちと共におられるからこそ開かれる、恵みの生活なのです。

 主よ、あなたは御子キリストをお遣わしくださり、贖いの御業を成し遂げてくださいました。その深い憐れみのゆえに心から感謝致します。御子という貴い代価をもって贖い取られた私たちの身体です。ご自身の栄光のために、この地に御旨が行われるために、その器としてお用いください。御国が来ますように。 アーメン



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