風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

1月22日(月) ヨシュア記7章

「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、さらにゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」 ヨシュア記7章1節

 エリコの町を攻め滅ぼしたイスラエルは、次の標的にアイの町を選びました。ヨシュアが数人の斥候に町を探らせると(2節)、彼らは戻って来て、「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません」(3節)と報告しました。

 ヨシュアはそこで、三千人の兵士を向かわせます。全軍をつぎ込むまでないと、三千人で攻め上ったというのは、ギデオンが三百の兵でミディアンの大軍を打ち破った記事を思い起こさせます(士師記7章参照)。

 ところが、期待に反して彼らはその戦いに敗退し(4節)、城門を出て来たアイの兵士によって36名の犠牲者が出ました(5節)。ギデオンの軍は、主への信頼を示していたのに対し、ヨシュアの軍は、3節に見られるようなうぬぼれと、主なる神への「不誠実」(1節)を表すものでした。

 アイの兵士の前に敗退したヨシュアは主に「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか」(7節)と問い、「カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」と訴えます(9節)。

 それに対して主は「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった」(10節以下、11,12節)とお答えになりました。

 それを聞いたヨシュアは、主の言葉に従ってイスラエルの部族を集めます。そこで、主が部族ごと、氏族ごと、家族ごとに進み出させて指摘をします。「主から指摘を受ける」とは恐らく、くじを引かせたものと思われます(口語訳、新改訳、岩波訳など参照)。

 部族ごとにくじを引かせるとユダ族にあたり(16節)、ユダの諸氏族にくじを引かせるとゼラに当たり、ゼラの全家族にくじを引かせるとザブディ家に当たり(17節)、ザブディ家の男子全員にくじを引かせるとカルミの子アカンに当たりました(18節)。

 アカンはヨシュアに「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました」と語り(20節)、盗みを告白します(21節)。アカンが主に罪を犯し、それがイスラエル全家に災いをもたらすことになったのです。そのため、アカンとその家族は石で打ち殺され、全財産は火で焼かれました(25節)。

 アカン一人のために、36名の兵士、そしてアカン自身の家族が犠牲になったわけです。アカンは初め、自分の振る舞いがイスラエル全家に災いをもたらすことになるとは、考えても見なかったことでしょう。自分がしたのは小さなことで、主なる神もお目こぼしになるだろうと思っていたかも知れません。

 しかし、多くの犠牲者が出て民の心が挫けてしまったとき(5節)、それが自分のした罪の所為だと気づいたのではないでしょうか。それでも、それを言い出しませんでした。くじがユダ族に当たり、ゼラの氏族に当たり、ザブディ家に当たり、そして自分に当たったとき、ようやく口を開きました。

 自分さえよければ、気づかれなければと、罪に手を染め、追い詰められなければ、その罪を認め、悔い改めることができない、人の弱さが示されます。あらゆる場でのモラルの低下、なかなか後を絶たない偽装、検査の数値改竄なども、同じ根っこでしょう。

 そう考えると、これはアカン一人の罪でもないということにならないでしょうか。そもそも、アイの町は「取るに足りぬ相手」と見なし、そのためか、主に問うこともしませんでした。このときイスラエルの民は、全軍が出るまでもないという思いの中で、主の助けが必要とは全く考えていなかったわけです。

 であれば、エリコの町を落とせたのは、主がヨシュアに指示を与え、勝利を賜ったからであったのに、あたかも自分たちの力で打ち破ったかのような思い上がりが兵士たちの間に蔓延していたと考えられます。だからこそ、アカンは戦利品を私しようとしたわけです。

 冒頭の言葉(1節)に「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった」と記されていました。「イスラエルの人々」とは、アカン一人のことではありません。御言葉を軽んじ、主を畏れることを疎かにするからこそ、「不誠実」になります。人として同じ弱さを持っている私たちです。

 神に従うことに「不誠実」になることがないよう、主を畏れ、絶えず御言葉に耳を傾けましょう。主に栄光を帰し、主をほめたたえましょう。

 主よ、私たちの中にも、アカンと同様、神の栄光を盗んで我が物にしようとする弱さ、罪があることを知っています。褒められるといい気になり、けなされると心挫けて水のようになります。主を畏れることを忘れてしまいます。絶えず御前に謙り、御旨に聴き従うことが出来ますように。主の平安で私たちの心と考えを守ってください。 アーメン

 

1月21日(日) ヨシュア記6章

「彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 ヨシュア記6章5節

 5章13節に登場した「主の軍の将軍」は、天使なのでしょうか。新約聖書において、天使を礼拝することは禁じられていますが(ヨハネ黙示録19章10節、22章8,9節、コロサイ書2章18節)、旧約においては、主の御使いが神と区別出来ない場合が多々あります。

 たとえば、モーセに現れた主の御使いは(出エジプト記3章2節)、次の段落では、「主、神」と記されています(同4節以下)。同様にヨシュアの前に現れた主の軍の将軍は、次の段落(6章1節以下)で「主」と呼ばれています。そして、ヨシュアが「ひれ伏して拝し」(5章14節)たとき、主の軍の将軍は、それを拒まず、むしろ、履き物を脱ぐように命じています(同15節)。

 そうすると、「主の軍の将軍」いうのは、「万軍の主」の別名と言ってもよいのかも知れません。だから、「主の御前である。控えおろう。履き物を脱げ」ということになるわけです。

 そのようにひれ伏しているヨシュアに、主がエリコの町を攻撃するための作戦を授けました。その作戦とは、まず、祭司7人の先導を受けた神の箱を先頭に、兵士たちが町の周りを一巡りし、それを六日間続けます。そして、七日目は町を七周するというものです。そのとき、祭司たちは「雄羊の角笛」を携えます。角笛を吹き鳴らしながら行進するのです(3,4,8節以下)。

 そして、冒頭の言葉(5節)の通り、七日目に町を7周回って、角笛を長く吹き鳴らした音を合図に、後方に控えているイスラエルの民全員で鬨の声をあげます。そうすると城壁が崩れ落ちるので、そこから町に突入せよというのです。

 町の周りを一日目から六日目まで1周、七日目は7周、合計13周回り、大声を出せば城壁が崩れ落ちるというのは、いつでもどこでも、誰がやっても、必ずそのようになるという作戦ではありません。むしろ、そんなことは起こり得ないという話でしょう。主が授けてくださった作戦だからこそ、今回それが起こるのです。

 城壁が壊れれば、それで戦いは終わりということではありませんけれども、しかし、エリコの人々は、イスラエルの攻撃に備えて城門を堅く閉ざすという、いわば籠城作戦を採ったわけで、剣を交えることになれば、勝ち目はないと考えていたのです。

 5章1節に「ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかった」と言われていました。だから、籠城している町の城壁が壊れると、勝敗は見えているということになります。

 しかしながら、主が授けた作戦というのは、俄かには信じ難い内容です。実行するのが難しいということではありませんが、それをまともにやってみようと思える人がどれほどいるだろうかと考えてしまいます。ここでしかし、ヨシュアは単純に信じました。だから、先ず祭司たちを呼び集めて、主から授けられた作戦を伝えました(6節)。

 次に、民全体にそれを命じました(7節)。すると、祭司から(8節)、武装兵(9節)、そしてその他の民に至るまで(10,20節)、誰もが素直に聴き、それに従います。そして、七日目、7周回った後、皆で鬨の声をあげると、主が告げたとおり、城壁が崩れ落ちました。

 そこで、イスラエルの民は崩れ落ちたところから城内に入り、町を占領しました(20節)。そして、町の人々だけでなく、牛、羊、ろばに至るまで命あるものはことごとく、剣にかけて滅ぼし尽くしました(21節)。

 あらためて考えてみると、エリコの城壁が崩れたのは、吹き鳴らされた角笛や鬨の声の大きさの故ではありません。また、何度も町の周りを回ったからということでもありません。城壁を崩したのは、主の御力です。主が御腕を伸ばされたので、城壁が崩れたのです。

 ということは、町の周りを13周回ることも、角笛を吹くこと、鬨の声をあげることなども、城壁を崩落させるための必要な条件ではないのです。つまり、主がなさろうと思われれば、イスラエルの民が何もしなくても、城壁を崩落させ、町を破壊することが出来たはずです。

 しかも、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」(10節)と命じています。城壁が崩れ落ちるまで、エリコの町の周りを回る間、城壁の上からエリコの町の人々に罵詈雑言を浴びせられても、黙っていろ、声を出すなということでしょう。

 それは、決して容易いことではありません。しかし、主なる神はこのようにして、イスラエルの民が御言葉に聴き従うか否かを御覧になったわけです。

 エレミヤ書1章12節に「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの御言葉を成し遂げようと見張っている」と記されています。主は、どんな状況であっても、ご自分の御言葉を成就することがお出来になります。「言葉を成し遂げようと見張っている」と言われるのは、御言葉が信仰をもって聞かれるか、御言葉がそれを聞いた人々と信仰によって結びつけられるか否かを見張られるわけです。

 神はこのとき、イスラエルの罪を裁くため、北にあるバビロニア帝国を「燃えたぎる鍋」として、用いようとしておられました(同13節参照)。もしもイスラエルの民が、エレミヤの預言の言葉を聞いて悔い改め、神に従う信仰を示していたならば、その災いが止められることになったでしょう。

 ヘブライ書4章2節に「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」と記されています。エジプトを脱出した民が、神の御言葉を信じなかったために荒れ野で神に打たれ、約束の地に入れなかったということです。

 そして、その不信仰、不従順は、シナイの荒れ野でのことに留まらず、ソロモン以後エレミヤの時代に至るまで繰り返されたため、結局、国が南北に分裂した後、北はアッシリアに、南はバビロンによって滅ぼされ、捕囚となる憂き目を見るようになったわけです。

 ヘブライ書の記者は「信じたわたしたちは、この安息に与ることができるのです」(同3節)と言います。即ち、私たちが神の言葉を信じ、それに聴き従うことを求めているわけです。一度信じさえすれば、それでよいわけではありません。信じ続けること、聴き従い続けることが求められています。

 日々、主の御言葉を信仰をもって聴き、その御心を悟ることが出来るように、その導きに従って歩み出すことが出来るように、祈りつつ御言葉を開きましょう。

 主よ、あなたの御言葉ほど確かなものはありません。昨日も今日も、そして永遠に真実です。ただ、主の御言葉だけが永遠に堅く立つのです。私たちに御言葉を聴く信仰を与えてください。謙って御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン






1月21日(日)主日礼拝説教

1月21日(日)主日礼拝には、教会員14名、来賓4名がお見えになりました。
礼拝後の昼食会にも12名参加されました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「主と共に」
聖書 ルカ福音書8章22~25節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


御覧ください。



 

1月21日(日)主日礼拝案内

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1月21日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マルコ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝ではルカ福音書8章22~25節より「主と共に」と題して原田牧師の説教を頂きます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


教会学校、主日礼拝を通して、皆様に主の恵み、導きが豊かに広がりますように。

 
礼拝後、昼食会(有料・自由参加)、各会の例会を行います。

1月20日(土) ヨシュア記5章

「主の軍の将軍はヨシュアに言った。『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』。ヨシュアはそのとおりにした。」 ヨシュア記5章15節

 ヨルダン川を渡ってギルガルに宿営している民に、主は割礼を施すよう命じられました(2節)。エジプトを出て来た人々は割礼を受けていましたが、彼らは荒れ野を巡り歩いている間に死に絶えてしまいました(4,5節)、そして、荒れ野で生まれた男たちは、割礼を受けていなかったのです(5,7節)。

 割礼は、主なる神との契約のしるしとして、男子に施されました(創世記17章9節以下、レビ記12章3節)。荒れ野で生まれた男たちが無割礼だったということは、荒れ野を旅する間、いかに主と民との間の契約が蔑ろにされていたかというしるしになるでしょう(6節)。

 割礼を受けた場所を「ギブアト・アラロト」(3節)といいます。「ギブア」が丘、「アラロト」が包皮で、「ギブアト・アラロト」は「包皮の丘」という意味です。包皮を切り取る割礼を行った場所ということで、そのように言われたわけです。

 主がヨシュアに「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)」(9節)と言われました。それで、その場所がギルガルと呼ばれるというのです。包皮を切り取ることが、エジプトの恥辱を取り除くこと取り除くという説明になっています。

 「今日、エジプトでの恥辱を取り除いた」ということは、エジプトを脱出するだけでは、恥辱は取り除かれたことにならなかったということです。そして、続く荒れ野の生活においても、その恥辱を雪ぐことが出来なかったのです。

 「エジプトでの恥辱」というのですから、それは、エジプトにおける奴隷生活のことを指しているのでしょうけれども、モーセに率いられてエジプトを脱出したものの、不信仰、不従順であったために、エジプトを脱出した第一世代は、約束の地に入ることが出来なかったということをも、ここに示しているわけです。

 それが「エジプトでの恥辱」という言われ方をするのは、民数記14章での、約束の地に行って剣で殺され、妻子を奪われるくらいなら、エジプトに引き返した方がましだというイスラエルの民の反抗により、彼ら自ら、エジプトの奴隷の地位にいることを良しとして、神が与えると言われた約束の地における真の自由を受け取ろうとしなかったため、ということなのでしょう。 

 割礼を受けた後、彼らはエリコの平野で過越祭を祝いました(10節)。それは、永遠に守るべき定めとして、「主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない」(出エジプト記12章25節)と規定されていたからです。

 割礼を施した後に過越祭を祝ったのは、「無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」(同12章48節)という規則になっているからです。ということは、これまでずっと過越祭が行われてこなかったということ、これから、主の救いの出来事を祝いつつ生きる、新たな生活が始まるということです。かくて、ヨシュアたちは今ここに神との契約を確認し、皆で喜び祝ったわけです。

 ただ、彼らがどのようにして麦を手に入れることが出来たのかは、不明です。ある註解者は、1節に示されるヨルダン川の西側にいた者たちが、ヨルダン川を渡って来たイスラエルの人々に恐れをなして逃げ出した結果、そこに残されていたものであろうと推察しています。

 過越祭が行われた後、どれほどの日時が経過したのか分かりませんが、あるときヨシュアは、エリコのそばで、抜き身の剣を手にした一人の男が立っているのを見ました(13節)。ヨシュアが歩み寄り、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると(13節)、彼は、「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、ついたところだ」と答えました(14節)。

 「いや」というのは、味方でも敵でもないということです。即ち、主の軍の将軍はこのとき、ヨシュアに味方するために来たというのではありません。ことを決するのは神であり、ヨシュアが主の命に従うかどうかを試しに来たわけです。

 抜き身の剣といえば、預言者バラムの前に立ち塞がった主の御使いのことを思い出します(民数記22章22節以下)。バラクの報酬に目のくらんでいるバラムは、抜き身の剣を持って立っている主の御使いを認めることが出来ませんでした。後で目の開かれたバラムに「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(同35節)と御使いが告げました。

 一方、ヨシュアはすぐにひれ伏して拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と尋ねます(14節)。つまり、ヨシュアは主の軍の将軍の前にひれ伏すことで、主に従う姿勢を示したのです。神は、どんないけにえよりも、御前に謙り、御言葉に聴き従うことを喜ばれます(サムエル記上15章22節、詩編40編7節、51編18,19節)。

 主の軍の将軍は、冒頭の言葉(15節)の通り、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる所である」と言います。これは、神の山ホレブで燃える柴の間からモーセに語られた神の言葉を思い出させます(出エジプト記3章5節)。つまり、ここで主の将軍は、ヨシュアに履物を脱がせて、まさしく、主に聴き従う下僕として召しているのです。

 また、「聖なる所」は6章19節の「聖なるもの」と同じ言葉です。その関連で、モーセの立っている場所が「聖なる所」だというのは、エリコが主のものであるという宣言と考えることが出来ます。だから、主の命に従ってその地を獲り、すべてを神にささげることが求められることになるのです(6章2,17節)。その召しを受けて、「ヨシュアはそのとおりにした」(15節)と記されています。

 ペトロが「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(第一ペトロ5章6,7節)と告げています。

 私たちも日々主の御前に謙り、その御言葉のとおりに喜びをもって従いたいと思います。

 主よ、あなたはヨシュアに履物を脱ぐように命じました。私たちも今、履物を脱ぐ思いで御前にいます。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。どうぞお語りください。僕どもは聞いております。いたるところで御名が崇められますように。御心がこの地にもなされますように。その道具として私たちを清め、用いてください。 アーメン






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