風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

9月23日(日) ヨブ記2章

「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」 ヨブ記2章5節

 主なる神の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て主の前に進み出たとき(1節)、主神が、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(3節)とサタンに言われました。これは、1章8節で語られたのと全く同じ言葉です。

 そして、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」(3節)と、サタンの攻撃にもかかわらず、敬虔に過ごすヨブのことをさらに誇らしく思っておられるという発言をされました。

 というのは、サタンは、ヨブが神を畏れ敬うのは、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根を設けて守っているからだといって(1章10節)、一瞬にしてすべての財産を取り去り、すべての子らを奪い去ったけれども、ヨブは神を非難することなく、罪を犯すことがなかったからです(同22節)。

 逆に、主がヨブについて、「地上に彼ほどの者はいまい」(1章8節)と称賛するのは、確かな根拠に基づいていたということがよく分かっただろうというのです。ところが、それに対してサタンは、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです」(4節)と応じます。

 「皮には皮を」というのは、何かの諺と考えられていますが、その意味は明らかではありません。ただ、「皮には皮を」と「命のためには全財産を」との対比で、二番目の「皮」と「全財産」が対応していると理解されます。

 1章10節の、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根をめぐらしているという言葉遣いで、ヨブには、幾重にも彼を覆っている皮があるということ、子どもたちや全財産というのは、ヨブにとって、彼を守る外側の「皮」だろうということが示されます。

 そして、ヨブ自身にも神の垣根がめぐらされていて、彼の命は最も内側の「皮」の中に守られているということ、その皮のためには外側の皮を、彼の命のためには全財産をという表現になっているのではないでしょうか。

 そこで、最後の守りである皮を取り去り、冒頭の言葉(5節)のとおり、主が手を伸ばしてヨブの骨と肉に触れられれば、もはや彼は無垢でいることは出来ず、神を呪うに違いないと告げるのです。

 それを聞いた神は、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」(6節)と、サタンがヨブを試すことを許されます。そこでサタンはヨブに手を下して、全身をひどい皮膚病にかからせました(7節)。その攻撃にどのようにヨブが応じるのか、注目されます。

 ヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中かきむしりました(8節)。「灰の中に座る」というのは、エステル記4章3節に、「灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」という言葉があり、上着を裂き、粗布をまとうなどの形式と並んで、悲嘆を表現する方法ということではあります。

 他方、重い皮膚病を患う人が出ると、町の人々は彼を外のゴミ捨て場に追放することが常だったと言われ、ヨブもそのような目に遭わされた、つまり、ひどい皮膚病を患った上に、屈辱的な振る舞いをされたということかも知れません。 

 そして、「素焼きのかけらで体中をかきむしった」というのは、頭をそるという以上の、悲しみを表現する極端なやり方でしょうか。あるいはまた、ひどい皮膚病のかゆみに、強く激しい刺激で対抗しているということでしょうか。

 こうしてヨブの行動は、1章のときとは明らかに変化しました。その内容をはっきり把握することが出来ない、あいまいで複雑なものになって来ています。 

 そこで、ここまで口を開くことのなかったヨブの妻が、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(9節)と発言します。「呪って」と訳されているのは、「バーラフ(祝福する、讃える)」という言葉です。

 岩波訳は「神を讃えて」と訳し、脚注に「ヨブの妻は夫が誰よりも高潔で、それを放棄しないことを知っているが、夫がこれ以上苦しむのを見ていられない。夫が神を呪って処罰を受けてでも、早く世を去って欲しいと思うが、彼が神を呪うわけがない。そこで彼女は、『神を讃え抜いて死んだらいい』と夫に語る」と記しています。

 とすると、「呪って」と訳しても「讃えて」と訳しても、ほとんどその意味に変わりはないということになります。そしてこれは、おのが腹を痛めて産んだ子らを一度に失った苦しみに加え、皮膚病で苦しむ夫を傍らで見ながら、どうすることも出来ないので、神を呪って死にたいと彼女自身が考えている表れなのではないかと思われます。

 ただ、サタンがヨブの妻を用いて、神を呪って死ぬようにヨブを唆したということも出来そうです。というのは、サタンが「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」と言いましたが、ヨブにとってその妻は、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)というべき存在でしょう。ヨブの骨と肉に触れるとは、彼女に触れることでもあったのです。

 ヨブの苦しみは神御自身の苦しみではないかと、昨日学びましたが、ヨブの妻の苦しみは、ヨブの苦しみを示しています。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(10節)と言います。

 ここで、「お前まで愚かなことを言うのか」とヨブは語っていますが、「お前まで」ということは、誰かが彼に「愚かなこと」を言ったということを表しています。それは誰なのでしょう。原文は「あなたは、愚かな女たちの一人が語るように、語っている」という言葉遣いです。愚かな女たちの仲間になったというような表現でしょうか。

 ただ、「お前は愚かなことを言う」というのではなく、そのような言葉遣いをすることで、むしろ、ヨブの心の片隅に、妻が語ったとおり「神を呪って死ぬ方がまし」とささやく声があったと表明しているようにも思われます。

 また、1章21節では「わたしは」と、自らの思い、信仰を明確に表現しました。ここでは「わたしたちは」と、妻をその協力者として共に立たせて、「不幸もいただこうではないか」と、決意を言い表すような問いかけの言葉で終わっています。

 ヨブの言葉の後に、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことはしなかった」(10節)と、彼の振る舞い、言葉に対する評価が記されています。1章22節の「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」というのと、特に変化はないようです。

 ただ、「唇をもって罪を犯すことはしなかった」ということは、表現された言葉ではなく、彼の心中はいかなるものか、彼の骨と肉はなんといっているのかというところは、彼の態度同様、あいまいになって来ているということを示してはいないでしょうか。

 ヨブの妻の発言について、「あなたはまだ一人で自分の無垢を主張するのですか。自分の完全さ、汚れのなさを主張し、それを保ち続けようとすることで、自分は神の外に、神と無関係に立っているということになりはしませんか。その無垢な自分を苦しめる神を呪うことになりはしませんか。それは自分の死を意味することではありませんか」と読む解釈が注解書にありました。

 ということでいえば、ヨブの妻の発言の内容、その意図も、すべて明確だということにはならない部分があるようです。ヨブは妻の発言を「愚かなこと」と断じていますが、註解書のような読み方をすると、これを「愚か」と言えるのかということにもなります。

 私たちの敬虔さ、汚れのなさは、どんな不幸に襲われてもそれに動じないでいる様子を見せ続けること、伝統的な信仰告白を唱え続けることで保たれていくものでしょうか。それとも、自らそれを守ろうとすることを放棄し、今自分が置かれているところをありのままに受け止め、受け入れることで守られるものでしょうか。それとも、さらに別の道が開かれるのでしょうか。 

 私たちがヨブのような苦しみを受けたとき、どのように考え、どのように振る舞い、何を語るでしょうか。伝統的な信仰告白に立ち、賛美を続けるという真似をすることは出来そうにありません。苦しみ悩みを主に訴え、しばしば不信に陥り、人や神を呪うかも知れません。そんな弱い自分であることを、いやというほど思い知らされることでしょう。

 あらためて、ゆえなく神を敬うことのできない者であることを自覚し、その私を母の胎にお造りくださった神の憐れみにひたすら依りすがり、あるがまま神の御手に委ねて歩みたいと思います。

 主よ、私は自分の命を守るためなら何でもする自己中心的な臆病者です。キリストの血潮と聖霊の力によらず、自分の力で確信を持ち続け、平安に生きる者にはなれません。主の御名によって絶えず正しい道に導き、どんなときにも共にいて、その鞭と杖をもって、わたしを力づけてください。御霊の導きに与り、主に従う者となることが出来ますように。 アーメン





9月23日(日)主日礼拝説教

9月23日(日)の主日礼拝には、教会員14名、来賓8名(子供2名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「狭い戸口から入れ」
聖書 ルカ福音書13章22~30節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師


御覧ください。








9月23日(日)主日礼拝案内

02

9月23日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。

「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・士師記から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、ルカ福音書13章22~30節より、「狭い戸口から入れ」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、昼食会(有料・自由参加)を行います。


昼食会後、各会の例会が行われます。





9月22日(土) ヨブ記1章

「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」 ヨブ記1章1節

 今日からヨブ記に入ります。ヨブ記について、ヘブライ語の語彙や記述されているモティーフ、取り扱われている主題の共通性から、第二イザヤ(イザヤ書40章以下)の成立と関係のあるバビロン捕囚時代に著述されたものではないかと考えられています。

 冒頭の言葉(1節)で、ヨブ記の主人公ヨブは、「ウツの地」にいたといいます。「ウツ」は、創世記22章21節ではナホルの長男の名で、パレスティナ北東シリアの地を指すと考えられ、また哀歌4章21節によれば、パレスティナ南東エドムの地を指しているようです。いずれにせよ、それはイスラエル国内ではありません。

 ヨブという名について、 「アッヤ・アブム=(神なる)父は何処に」という意味ではないかと考えられています。つまり、生涯を通じて神が臨在されるようにという永続的な祈りを示しています。また、「アーヤブ=憎む」の受動態分詞形で「憎まれ、迫害された者」という意味の名前ではないかという学者もいます。

 「父なる神はどこへ」も「憎まれ、迫害された者」も、ヨブの苦難について、主なる神は長く沈黙しておられて、ヨブの訴えにお答えにならないというのを、その名前に宛てたというかたちになっています。上述のとおり、ウツがイスラエル国内でなく、ヨブがイスラエル人でなければ、その名の意味をヘブライ語で考えても、意味がないことかも知れません。 

 ヨブ記には、ヨブがいつの時代に生きていたのかを判別させる情報が何も記されていません。そのことからヨブ記の記者は、この物語を具体的な過去の歴史としてでなく、いつの時代にも、そして誰にでも起こり得る出来事として、ここから大切な指針を学んで欲しい、それを学ぶことが出来ると考えているのではないかと思われます。

 つまり、誰もがヨブ、あるいはヨブの三人の親友エリファズ、ビルダド、ツォファルの立場に立たされることがあるということです。ですから、ヨブになったつもりで、あるいは、彼の友になったつもりで、そこに語られている言葉の意味、その人物の思想などを考えてみましょう。

 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言われます(1節)。「無垢」は「ターム=完全な、汚れのない」という言葉で、神の前に示される敬虔さを示しています。また、「正しい」は「ヤーシャール=平らな、真直ぐな、正しい、正直な」という言葉で、悪を避けて、真直ぐな道を歩む真正直さを示しています。この敬虔さと真正直さが本書のテーマであり、通奏低音になっています。

 2~3節で、「七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」と記されていますが、この記し方で、ヨブが敬虔に真正直に歩んでいたので、そのような祝福を神から受けたということを示しているようです。

 ところが、あらゆる財産、すべての子どもたちを、交互に襲いかかって来た異邦人による略奪と天災によって、一瞬にして失ってしまいます(13~19節)。何故、そんなことが起こったのでしょうか。財産はともかく、子どもを失って平気な親はいません。

 長男の家で開かれていた「宴会」は、4節の「順番に」というのが「彼の日に」という言葉で、誕生を祝う日であることを示していることから、誕生を祝う宴会が、大風で子らをすべて失う弔いの日に変わってしまったのです。どんなに嘆いても嘆き足りないでしょう。どれほど神を呪いたい思いになるでしょうか。それこそ、自分も死にたくなる気分ではないでしょうか。

 その報せを受けたヨブは立ち上がり、まったく沈黙したまま衣を裂き、髪を剃って喪に服し、地にひれ伏しました(20節)。それは、悲しみを表す表現、大きな痛みを受けて、それを形式的に表現したものです。感情を形に表すことは、感情が爆発し荒れ狂うのを防ぐ防波堤のような役割を果たします。

 そして、ヨブは口を開きます。それは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(21節)という言葉でした。

 まず、自分自身を主語として、すべてを失った悲しみを、「裸でそこに帰ろう」と言い、次いで、この出来事は主の御業だという信仰を示し、結語で「主の御名はほめたたえられよ」と賛美して、すべてを肯定的に受け止めていることを表現しています。

 この言葉は、深い悲しみを形式的に表現したことと同様、愛する子らを失った大きな心の痛みを、死別に際しての伝統的な信仰告白の言葉で言い表し、それ以外の暴言が飛び出してくるのを防ぐ垣根としたと理解することが出来ます。つまり、形式的な感情表現と、伝統的な信仰告白によって、感情の爆発、不敬虔な暴言を必死に抑え込んだわけです。 

 天上の神の会議において、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」とサタンが神に言いました(9節)。「利益もないのに」というのは、「故もなく、自由に、無償で」という言葉です。

 ヨブのみならず、私たちは神によって創造されました。ですから、自発的に神を畏れ、敬うというよりも、神に造られた者としての意識のゆえに、その応答として神を畏れ、敬うというのが、私たちの礼拝の出発点であるのは、疑いもないことです。

 それは、私たちがどのようなものとして神に創造され、その被造物である私たちが、創造者なる神とどのような契約を結ぶことが出来るのかという問いを思わせるものです。であれば、御自分の創造された、模範的な敬虔さ、正しさを示しているヨブを打つことをサタンに許し、ヨブが精神的、肉体的な苦しみを受けたことは、それは神御自身の苦しみでもあったのではないでしょうか。

 ヨブが、その振る舞いと言葉で神を非難せず、むしろ賛美したことを、「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(22節)と評価しています。それは、この時点で、彼の自意識のなせる精一杯の振る舞いであり、言葉だったと思われます。そしてそのことが、2章で問われることになるのです。

 新約の時代に、主イエスが、使徒ペトロたちの離反を、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(ルカ福音書22章31節)と予告され、続けて「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同32節)と仰いました。

 サタンに振るわれて、自分の力で立ち続けることのできる者はいないということです。だからこそ、主イエスが私たちのために祈りで支え、再び立ち上がることが出来るようにしてくださるというのです。そして、その経験を通して、同じように振るわれ、打ちひしがれている者を慰め、力づけることが出来るようにしてくださるというのでしょう。 

 主イエスは、神の御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを受け、その苦しみをとおして従順を学ばれたお方です(ヘブライ書5章8節)。私たちと同じ試練を味わってくださったので、私たちの弱さを知り、憐れみと恵み、時宜にかなった助けをお与えくださるのです(同4章15,16節)。

 さらに、御霊も弱い私たちのうちにあって私たちのために呻き祈られ、執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。かくして神は、私たちのために、どんなにマイナスと見える状況に囲まれていても、あらゆることがプラスとなるように働いてくださるのです(同8章28節)。

 私たちも、御霊の助けと導きに与って、どんなマイナスもプラスに変えてくださる主を信頼し、御名を誉め讃えつつ歩ませて頂きましょう。

 主よ、思いがけない不幸に見舞われる中で、ヨブはそこで主への賛美の言葉を語ることが出来ました。私たちも御霊の助けと導きに与り、万事を益とされる主に信頼し、「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」と賛美することが出来ますように。その賛美が、真実となりますように。そして、全世界に主の平和が豊かにありますように。 アーメン




9月21日(金) エステル記10章

「ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。」 エステル記10章3節

 冒頭の言葉(3節)のとおり、ユダヤ人モルデカイが、ペルシアにおいて王に次ぐ地位、つまり首相に正式に就任しました。ユダヤ人に反感を持つ者が一掃された今、ユダヤ人のみならず、スサの町の人々にも覚えのよいモルデカイを(8章15,16節参照)、王に次ぐ地位に据えることで、クセルクセスの治世はますます安泰ということになったのではないでしょうか(9章3,4節)。

 モルデカイは、娘として育てたエステルに対して、ユダヤ人絶滅の危機にあって解放と救済のために行動することこそ、王妃の位にまで達したあなたの責務ではないかと訴えました(4章14節)。そして、「死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」(同16節)というエステルの答えを聞いて、それをよしとした人物です。

 モルデカイは、地位を利用して私腹を肥やしたり、自分の利益のために権力を行使するという今日の権力者とはおよそ違います。だからモルデカイは、「その民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した」(3節)のです。自分に与えられる恵み、神の賜物は、自分のためではなく隣人のために用いるものであることを、知っていました。

 これは、私たちにも示されていることです。パウロが「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(第一コリント12章4~7節)と教えています。

 各自の才能、能力、賜物などは、人に仕え、神に仕えるために与えられた神の恵みなのです(ローマ書12章6節以下参照)。その霊的な賜物により、ある人は使徒、ある人は預言者、ある人は福音宣教者、ある人は牧者、ある人は教師とされます(エフェソ書4章11節)。そして、めいめいが奉仕の業に適した者とされ、キリストのからだに例えられるキリストの教会を造り上げるのです(同12節)。

 主人に預けられた1タラントンを土に埋めておき、用いようとしなかった僕は、帰って来た主人から怠惰で悪い僕だと叱られ、主人はその1タラントンを取り上げて、5タラントンを預かって商売し、さらに5タラントンを儲けた別の僕に与えます。そして、怠け者の僕を外の暗闇に追い出してしまうというたとえ話があります(マタイ25章14節以下、28,30節)。

 このタラントンというお金の単位から、タレント、才能という言葉が出来たと言われます。才能は用いれば豊かになるが、眠らせておくと失われてしまうということで、なかなか考えさせられる話でしょう。

 モルデカイの娘エステルは、本名はハダサと言いました(2章7節)。ハダサとは、イザヤ書55章13節に言う「ミルトス」のことです。ミルトス(銀梅花)は、地中海沿岸やイスラエルの山地に生育する灌木で、葉は常緑、白い可憐な花を咲かせます。

 生命力が強く、干ばつにも耐える強木として、不死の象徴となり、そこから成功、繁栄の象徴ともなりました。ユダヤ教の伝統では、ミルトスの花を臨終の床に供えたり、結婚式で花嫁がブーケにしたり、ウエディング・リ-スに編み込んだりしています。とても意味深い名前ですね。

 それが、「星」という意味の「エステル」と呼ばれているのは、彼女の出自を分りにくくするために、バビロンの神イシュタルに似せてつけられたのかも知れません。けれども、死を賭してイスラエルのために働いたことから、星の光で東方の博士たちが主イエスの居場所を探り当てたように、エステルの生き方は、主イエスを指し示していると読んでもよさそうです(マタイ2章参照)。

 その意味では、モルデカイについても、ペルシアの記録に、クセルクセスの治世の初期にマルドゥカヤという高官の名があり、それをモルデカイのこととする学者もあるようですが、それこそバビロンの神マルドゥクに肖ってつけられた名前のようです。

 しかし、9章3節で「諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちは皆、モルデカイに対する恐れに見舞われ、ユダヤ人の味方になった」と言われ、また冒頭の言葉で「彼(モルデカイ)はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した」と言われるのは、彼を通して、主なる神がそこに姿を現わしているからこそ、ということでしょう。

 エステル、モルデカイの活躍によって守られたイスラエルの民は、今もイスラエルの子どもたちにとって最も楽しみな祭りの一つとして、プリムを祝います。モーセ五書に記されずに、重要な祭日として守られているのは、このプリムだけです。その意味では、エステル記は、モーセ五書に次ぐ地位を得ているといってもよいでしょう。

 エズラ、ネヘミヤ記は、捕囚からエルサレムに戻った人々を真の神の民として描き、彼らによって神殿の再建、城壁の修復がなされ、その完成を出エジプトになぞらえて、過越祭、仮庵祭で祝いましたが、エステル記は、キュロスによる解放後もエルサレムに戻らなかった者たちにも神の守りと導きがあること、つまり、ディアスポラ(離散)のユダヤ人も神の民イスラエルであることを示しています。

 私たちキリスト教徒には、プリムを祝う習慣は伝えられていませんが、エステル記を朗読することを通して、どのような時代状況の中にあっても、たとえ自分たちに逆風が吹いているとしか思えないようなときにも、その背後に恵み深い主なる神がおられ、私たちをその中で平和のために用いてくださることを信じるよう、励ましをいただくことが出来ると教えられます。

 私たちの主イエスこそ、すべての者に仰がれ、愛され、ご自分の民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束しておられるのです。 

 主よ、私たちは御子イエスの血の代価によって買い取られ、神の民とされました。私たちを御心のままに取り扱い、委ねられた賜物を互いに生かして用いることにより、この体をとおして神の栄光を表すことが出来ますように。主イエスの平和が全世界の民の上に豊かにありますように。 アーメン




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