風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート

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福音歌手 森祐理 25周年記念コンサートツアー

 期日2017年9月30日(土)

 開場14時半 開演15時

 会場 清水文化会館マリナート小ホール(静岡市清水区島崎町214)

 入場料 一般3000円、小学生以下1500円
 

 写真をクリックすると拡大版が開きます。


 「ここ」をクリックすると、コンサートツアー・開催スケジュール案内のPDFファイルが開きます。

ペシャワール会・中村哲 講演会

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ペシャワール会の中村哲医師を迎えて、講演会が行われます。

当初6月8日(木)に予定されていましたが、中村師の都合で9月5日(火)に延期されました。
会場も、アザレアからグランシップに変更されています。


アフガニスタンにいのちの水を
~33年の活動報告~


日時 2017年9月5日(火)18時45分から21時

会場 静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」中ホール(静岡市駿河区池田79-4)

参加費 前売り1300円、当日1500円 高校生以下前売り1000円、当日1300円
※前売り券は、案内裏面の賛同団体、賛同者より購入出来ます。


写真をクリックすると、別ウインドウでPDFファイルが開きます。
ファイルの第2頁(案内の裏面)に、ペシャワール会現地報告写真展の案内があります。

静岡市では

会場 水曜文庫(静岡市葵区鷹匠2-1-7つるやビル1F)
日時 7月20日(木)~8月6日(日)11時~20時(月曜定休)

となっています。
お近くの方はぜひお出かけください。


 

日比恵三・平井陽子 Duo Concert

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日比恵三・平井陽子 Duo Concert

 ドイツロマン派の夕べ

 日比恵三 Violin 平井陽子 Piano


期日 2017年7月28日(金)

開場 18時  開演 18時半


会場 江崎ホール(静岡市葵区七間町8-20毎日江崎ビル9F)

チケット 2000円(学生1000円)

問い合わせ先 音楽舎 094-265-2930

すみやグッディ静岡店 054-253-6222


写真をクリックするとPDFファイルが開きます。





 

7月25日(火) 創世記13章

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」 創世記13章14,15節

 新共同訳聖書は13章に「ロトとの別れ」という小見出しをつけています。ロトは、アブラムの兄ナホルの子、つまりアブラムの甥にあたります。これから、アブラムとロトが別れ別れになるということです。
 1節に「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった」と記されています。12章10節以下、イスラエル南部のネゲブ地方にいたアブラムは、ひどい飢饉にあってエジプトに逃れました(同10節)。

 そのときアブラムは、妻サライが美しいので(同11節)、殺されてしまうかもしれないと考え(同12節)、「妻」という代わりに「妹」と言います(同13節)。すると、エジプトの王が彼女を王宮に召し入れ(同15節)、アブラムにたくさんの贈り物をしました(同16節)。アブラムは自分の命を守るため、妻サライをエジプトの王に差し出し、引き換えに贈り物を受け取ったのです。

 このままでは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(同7節)と言われた主の約束は、台無しになってしまいます。そこに主なる神が介入され、王と宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました(同17節)。それで、王はサライをアブラムに返し、エジプトを去らせました(同19節)。

 神がアブラムとサライを守ってくださったので、何の害を受けることもありませんでした。それだけでなく、アブラムは王様から妻サライを返してもらいましたが、贈り物として与えられた羊や牛の群れ、ロバ、雌ロバ、ラクダに男女の奴隷などを王様に返さなくてもよかったので、資産を増やしてネゲブに戻って来たのです。

 3,4節に「ネゲブ地方から更に、べテルに向かって旅を続け、べテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と記されています。これは、12章8節から10節までの箇所に書かれていた旅路の逆コースです。

 そして、飢饉を逃れるためにエジプトに下って以来、しばらく忘れたかのようになっていた、主の御名を呼ぶ、神を礼拝することを回復する道でした。それはまた、アブラムがサライとの仲を回復するための道でもあったでしょう。神の御許に戻って来る以外になかった、神の恵みを受けずして、自分たちを取り戻すことは出来なかったのです。

 それはしかし、元通りということではありません。1~4節に、「戻る、帰る」(シューブ)という言葉は用いられていません。ここにあるのは、「上る(アーラー)」、「行く、歩く(ハーラク)」という、足を踏み出して前進する姿勢を表す言葉が使われています。

 つまり、過去を懐かしむ道、思い出の場所に逃げ込むための道ではなく、目を将来に向け、約束の土地を目指して新しい思いを抱きながら、エジプトを出立し、ネゲブからべテルまでやって来たということになるのではないでしょうか。

 ところが、アブラムとロトの家畜が多くなって、問題が発生します。7節に「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」とあるとおりです。カナン人、ペリジ人の住む地に寄留している二人にとって、現在の牧草地や水場だけでは、各々の群れを維持することが出来なくなってしまったのです。

 かつて、「わたしが示す地に行きなさい」と主から示されたとき、主はアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて」(12章1節)と言われていました。それは、アブラムを目に見える形で守り支えるものから引き離すことでした。そのとき、アブラムは甥のロトを連れて出発しました(同4節)。それは、子が授からなかったときの保険にしようということだったでしょう。

 財産が増えたことは神の祝福と言ってもよいと思いますし、ロトを保険とすることで、アブラムの将来はいよいよ安泰ということになるはずでしたが、それが親族間に争いをもたらすことになりました。人間関係はなかなか一筋縄ではいかず、思うに任せません。エジプトで資産を増やして戻って来たことが、仇になったかたちです。

 そこで、家長として身内の争いを避けるために、アブラムは一つの決断をします。それは9節で、「あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」というものです。

 ここでアブラムは、土地の選択権を甥のロトに譲っています。ロトは、周りを見渡して、よく潤っているヨルダンの低地を選び、さっさと荷物をまとめ、東へ移って行きました(11節)。ロトには、年長者を立てて、先によいところをとってもらおうという考えは無かったようです。

 あるいは、牧者間の争いの背後に、ロト自身が叔父アブラムとは一緒にやって行けないという思いがあったのかも知れません。エジプト滞在時の、妻サライよりも自分の命の保全を優先したアブラムの身の処し方に、その原因があるとも思われます。

 「ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と10節後半に記されています。ソドム、ゴモラの位置は不明ですが、死海の南岸にあったのではないかと考えられています。

 19章にソドムとゴモラ、低地一帯の滅亡が記録されています。その原因が13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているのです。豊かに繁栄することが罪を犯すことに直結しているわけではありませんが、神に依り頼むよりも富に信頼を置くという、私たちには、目に見えるもので安心しようとする傾向があることを否むことが出来ません。

 一方、ロトに選択権を譲ったアブラムは、西へ移って行きます。18節に、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに住んだと記されています。ヘブロンは、死海(塩の海)の西方、ユダの山地南部、海抜930メートルの高さにある町です。

 かくてアブラムは、「父の家」の残りの者、ロトと分かれ、また、良い地を離れて、南方の山地に住むことになりました。その時、アブラムに主なる神が声をかけられました。それが、冒頭の言葉(14,15節)です。

 ここで「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われているのは、アブラムがこの時、うなだれていたのでしょう。それは、甥のロトと別れた結果、将来の保険を失うようなことになったからです。また、よく潤ったヨルダンの低地を離れることで、増えた家畜の群れを維持していくことに不安を覚えていたかも知れません。

 10節に「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は…見渡す限りよく潤っていた」と記されていたように、甥ロトの希望に満ちた有様とは全く好対照です。

 けれども、詩編145編14節に「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」と詠われているように、主はうなだれているアブラムに「目を上げよ」と呼びかけ、立ち上がる勇気を与え、子のないアブラム、今ロトと別れて保険を失ったばかりのアブラムに、見える限りの土地をアブラムと子孫に与えるという祝福を告げられます。

 しかも「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(16節)と言われました。

 先には、自分で自分の命を守るために、詭弁を用い、妻をファラオに差し出しました。それが、ロトと袂を分かつ原因となりました。ここでアブラムは、自ら考えて行動するのではなく、「わたしが与える」と告げられる神の言葉に従うのです。

 何よりの祝福は「見渡す限りの土地すべて」(15節)というより、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)という言葉でしょう。子孫がいなければ、ここに嗣業の地が与えられても、アブラムの死後、また他人のものになってしまいます。

 今はまだ、畳一枚分の土地も持っていません。それを受け継ぐ子もいません。しかし、アブラムは主の言葉に従って目を上げました。彼が見たのは、他人の土地ではなく、主が自分にくださると言われた土地です。そして何よりも、それをくださると約束された主を仰いだのです(18節)。

 アブラムは「信仰の父」と言われますが、それは主の恵みによるものでした。ローマ書8章30節に、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」というとおりです。アブラムは、罪深い自分を義とし、さらに栄光をお与えくださる主を仰ぎ、問題のただなかで、神は万事を益とされるお方だと信じたのです。

 私たちも、御言葉に従って目を上げましょう。示されるところを見渡しましょう。縦横に歩き回りましょう。主が語られた御言葉の力、その恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、アブラムは人間的な希望を失ったとき、御言葉に促されてあなたを仰ぎました。そうしてアブラムは、再び立ち上がる力を得、希望をもって出発することが出来ました。私たちも主の御言葉に信頼し、導きに従って歩みます。耳を開いて御言葉を聞き、目を開いて主の御姿を拝することが出来ますように。 アーメン





7月24日(月) 創世記12章

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」 創世記12章1節

 11章10節以下にノアの子セムの系図が記されていますが、セムから数えて9代目に、テラがカルデアのウルで生まれ(11章24節)、テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれました(同26節)。恐らく長男であろうハランは、ロトをもうけた後、亡くなりました(同28節)。一方、末息子と思われるアブラムには、子どもが出来ませんでした。

 ハランの死後、テラは息子アブラムとその妻サライ、ハランの息子ロトを連れてカルデヤのウルを出発し、ハランまでやって来ました。ウルは、チグリス、ユーフラテス川の河口付近に位置し、ハランは、その上流に位置する町です。ウルからハランまで、約900㎞の距離です。東京~広島、大牟田~静岡といったところでしょうか。

 なぜ、テラがウルからハランまで移動することにしたのか、理由は聖書に記されておりませんが、アブラムが誕生した紀元前2000年頃、東のエラムがウルに侵攻し、ウル第三王朝を滅ぼすという事件がありました。もしかすると、その難を逃れるための移動だったのかも知れません。

 テラは、205年の生涯をハランで閉じることになりました(同32節)。アブラムが生まれたのは、テラ70歳の時ですから(同26節)、テラが召天したのは、アブラムが135歳のときということになります。

 冒頭の言葉(1節)で、主なる神がアブラムに、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられました。「生まれ故郷、父の家」について、「生まれ故郷」は「カルデアのウル」(11章28,31節)ですが、「父の家」は、主の呼びかけを受けた時、アブラムは父テラに連れられて、ハランの地に来ていました(同31節)。

 そして、父テラはアブラム135歳の時に召されたということですから、主がアブラムに語りかけられたとき、父はまだ存命だったのです(同26,32節,12章4節参照)。

 ということで、「生まれ故郷、父の家を離れて」とは、「ハランの地を離れて」ということになりますが、これはしかし、アブラムを愛し、養い育て、守り支えてくれるものの総称と考えたらよいでしょう。神は、それなしに生きることは出来ないと考えているものから、アブラムを引き離そうとされたのです。

 アブラムがハランに何年住んでいたのかは不明ですが、慣れ親しんだ場所、愛され、養い育てられたところを離れ、守り支えてくれた家族、親族から別れて旅立つというのは、大変なことだったでしょう。

 その上、「わたしが示す地に行きなさい」と言われていますが、それがどのようなところなのか、明示されてはいないのです。75歳という年齢に達して、見知らぬ地に出て行くことを選び取るというのは、決して容易いことではありません。簡単にやり直しの聞く年齢とは考えられないからです。思えば、とても勇気のいる決断だったでしょう。

 しかし、アブラムはその命令に従って旅立ちます。ここに信仰の基本があります。信仰とは、神の語りかけ、その御言葉を聞いて、それに応答することです。アブラムは主の御言葉に従いました。即ち、アブラムは自分の親族や竹馬の友、家、財産などではなく、主なる神に信頼し、その導きに従うことにしたのです。

 「わたしが示す地に行きなさい」という命令には、祝福の言葉がつけられていました。それは、2,3節の「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」という言葉です。

 ここに、「祝福する」(バーラフ)という言葉が4回、「祝福(の源)」(ベラカー)が1回用いられています。アブラムが家を出るのは、「大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2,3節)と言われる主の祝福に与るためです。

 12章1節以前の状況であれば、アブラムの家系は、彼の死をもって途絶えてしまいます。しかし、そこに状況を変える祝福の言葉が、主なる神によって語られたのです。故郷にいれば、自分たちは安全に守られるかもしれませんが、妻サライの不妊という状況を変えることは出来ません。

 神に従って旅立てば、旅の危険、そして見知らぬ土地、見知らぬ人々の間での新しい生活の不安はあるものの、「大いなる国民とする、あなたの名を高める」という、将来の希望を手にすることが出来るかもしれないのです。アブラムは、それに懸けてみることにしたわけです。

 旧約学者の浅見定雄先生がこの箇所を註解して、「信仰は、服従としての冒険を回避しない。しかし、信仰の決断は、『やけくそ』や『当てずっぽう』の別名ではない!」と記しておられます。上述のとおり、確かにアブラムは、ここで主の言葉に従う信仰の決断をしたのです。

 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(2節)というのは、バベルの人々が、高い塔のある町を建てて獲得しようとしたものでした(11章4節)。バベルの人々が獲得に失敗したものを、主なる神はアブラムに祝福としてお与えくださるというのです。

 しかも、アブラムに与えられる祝福は、彼一人のものではありません。アブラムの祝福は、地上のすべての氏族に及びます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(3節)と言われているからです。一人の祝福がすべての民の祝福となるのです。

 何故アブラムが、地上のすべての氏族の祝福の源とされるのでしょうか。その理由は誰にも分かりません。アブラム自身にすら分からないでしょう。ただ、アブラムを祝福の源とし、アブラムによって地上の氏族をすべて祝福に入らせたいという主なる神の御意志、恵みの御心によって、アブラムが選ばれたのです。

 アブラムは、特別な存在ではありません。アブラムが自分で神の祝福を造って人々に配れるわけではありません。ただ、「あなたを祝福の源とする」と言われる神を信じたのです。アブラムは、そのように神を信じる者の代表として、私たちの前に立っています。私たちも、祝福をお与えくださる神を信じる信仰において、その祝福に与っているのです。

 ただ、4節に、「ロトも共に言った」と言われています。主から、「父の家を離れて」と言われていたのに、アブラムは甥のロトを連れて行ったのです(4節)。アブラムは、自分に子が出来なかった場合の保険と考えて、甥ロトが同行させたのではないかと思われます。

 やがて、カナンの地、「シケムの聖所、モレの樫の木まで来た」ところ(6節)、主がアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました(7節)。「わたしが示す地に行け」という御言葉に従ったアブラムに、「これがその土地だ、これをあなたに与える」と言われているわけです。

 主とその御言葉に信頼して行動するとき、主は御言葉に伴うしるしをもって、御言葉の真実を示してくださいます(マルコ福音書16章20節参照)。アブラムは、そこに祭壇を築きました(7節)。また、そこからベテルの東の山に移った時も、主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました(8節)。即ち、アブラムはカナンの地で主なる神に礼拝をささげ、主の御名を呼んで祈ったのです。

 主の示された地に到着して、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と言われた主に、感謝と喜びをもって2,3節で語られた祝福の実現を祈り願ったのでしょう。
 
 私たちも信仰によって救いに与ったアブラハムの子として(ルカ福音書19章9節参照)、主の御言葉にしっかりと耳を傾け、御言葉を信じて立ち上がり、前進させて頂きましょう。地上のすべての人が主の祝福に入るため、主の恵みを力強く証ししましょう。

 主よ、アブラムは御言葉を信じて行動しました。主はその信仰を確かなものとしてくださいました。今、私たちもあなたの御言葉を聞いています。私たちの耳を開いてください。ただ聞くだけの者でなく、聞いて行う者とならせてください。御言葉の真実を見ることが出来ますように。聖霊に満たされて、主の証人として用いられますように。 アーメン







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