風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

クリスマス礼拝の案内

01

12月1日(日)から24日(火)まで、イエス・キリストの降誕、そして再臨を待ち望むアドベント(待降節)です。

12月22日(日・アドベント第四主日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、新約聖書・マタイ福音書から、共に聖書の学びと交わりを行います。


クリスマス礼拝を10時半から行います。

礼拝は、ルカ福音書1章57~80節より、「主は恵み深い」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


礼拝後、クリスマス祝会(愛餐会・プレゼント交換)を行います。

愛餐会は無料です。
どなたもお気軽にご参加ください。

プレゼント交換は、300円程度のプレゼントにクリスマスカードを添えて行います。
ご自分で用意できない方は、教会に備えがありますので、お申し出ください。

楽しく主イエスのご降誕をお祝いしましょう。


24日(火)19時より、クリスマスイブ・キャンドルサービス(燭火礼拝)を行います。

ローソクの火を灯し、厳かな雰囲気の中、讃美歌と聖書の言葉でキリストの誕生の次第を辿ります。

そして、ルカ福音書2章1~21節より、「今日救い主が」と題して牧師よりクリスマスの説教をいただきます。


「クリスマスは教会へ」

キリスト教の集会は初めてという方も、ぜひお気軽にご参加ください。


画像をクリックするとPDFファイルが開きます。

ご覧ください。



12月15日(日)主日礼拝案内

02
12月15日(日)は、アドベント(待降節)第三主日です。
教会学校小学科(小学生)、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて3福音書のイエス降誕物語から、共に聖書の学びと交わりを行います。


主日礼拝を10時半から行います。

礼拝では、新約聖書・ルカ福音書1章39~56節より、「わたしの魂は主を崇め」と題して、原田牧師より説教をいただきます。


写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


礼拝後、信徒会、昼食会(有料・自由参加)、各会例会を行います。


 

12月13日(金) アモス書4章

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を乗り越えられる。その御名は万軍の神なる主。」 アモス書4章13節

 4章でアモスは、イスラエルに対して具体的な告発を行います。

 先ずサマリアの女性たちに向かって、「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」(1節)と呼びかけ、彼らは弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げていると、その罪を告発します。「バシャンの雌牛」とは、食用に供される牛の品種を示しており、サマリアの女性たちを侮辱して、憤らせる表現です。

 女性が、「酒を持って来なさい、一緒に飲もう」(1節)と夫に向かって言い、夫は女性に十分な酒を用意するために、弱い者、貧しい者から搾取しているということでしょう。ということは、ここで裁かれているのは、北イスラエルにおける支配者層の人々ということになります。

 その深酒と不公正のゆえに彼らは裁かれ、「ヘルモンの方へ投げ出され」(3節)ます。ヘルモン山はイスラエル北方、アラムとの国境線付近にそびえる標高2800メートルを超える高峰です。ヘルモンの方へとは、北方へということで、アラムのことを指しているのでしょうか。はたまた、さらに北方の強国アッシリアのことを考えているのでしょうか。

 「投げ出される」は、2節の「肉鉤で引き上げられ」、「釣鉤で引き上げられる」との関連で、北方の国へ捕らえ移され、捕囚とされることと読めます。

 次いで4節で、「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」と語ります。ベテルやギルガルには、古くから聖所が置かれ、民はそこで神を礼拝していました。「罪を犯し」、「罪を重ねよ」と言われますが、ここでいう罪とは、法に触れる犯罪のことではありません。それは神に背くことです。

 それを、神殿で朝ごとにいけにえを携え、三日目には十分の一税を納め、感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼き、大声で随意の献げ物をすると触れ回ることによってせよというのです(4,5節)。これらの儀式に関係する行為は、通常はむしろ、神との関係を正しくするため、より確かなものとするために行われます。

 ところが、イスラエルの人々は、それらの儀式を行うことで、神からますます離れているとアモスは言うのです。それというのも、ベテルやギルガルで彼らが礼拝しているのは、万軍の主なる神ではなく、冒頭の言葉(13節)で「地の聖なる高台」と言われるような異教の神々なのです。

 「ベテルに行って罪を犯し」なさいというのは、勿論、神がそう願われての言葉ではありません。彼らがそうしていることを皮肉っているわけです。「ギルガルに行って罪を重ね」よというのも、同様です。そうすることが主なる神に対する罪であることを、明言しているわけです。  

 6節以下に、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」という言葉が5度(6,8,9,10,11節)繰り返されます。主なる神はそのとき、イスラエルが主に顔を向け、立ち帰るよう、様々な災いをイスラエルの上に降されました。それらによって彼らが罪を悔い改め、主を呼び求めるようになると期待されたのです。

 ところが、イスラエルの民は何度悔い改めを呼びかけても答えてくれないし、手を変え品を変えして帰り道を準備しても、帰って来ようともしません。それを見た主は、悲しくてやりきれないという思いでおられたのではないでしょうか。

 それで、堪忍袋の緒が切れたというのではないと思いますが、12節に「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と言われます。ここにも、4節同様の皮肉があります。通常、聖地への巡礼は主なる神の救いの恵みに感謝し、祭に参加するためになされるのですが、主はイスラエルの民に決定的な裁きを告げるために、彼らを招いておられるからです。

 そして、冒頭の言葉(13節)が語られました。主なる神は山々を造り、風を創造された方です。暗闇を変えて曙となされた万軍の神なる主の御前に、どんなことも隠すことは出来ません。すべてが明るみに出されます。

 彼らがベテルやギルガルを巡りながら、あたかも主なる神を拝んでいるようにして、実際には「聖なる高台」で異教の神々に犠牲を献げている彼らの偽善が明らかにされました。そして、「聖なる高台」は踏みつけられ、乗り越えられます。

 異教の偶像が主の御前に何の力がありますか。何の助けになりますか。偶像に依り頼んでいて、真の神と対峙できますか。そうです、それら異教の神々、刻まれた神の像は、何の力にも助けにもなりません。どうすれば、主と出会う備えが出来るでしょうか。

 神は、イスラエルの民が帰ってくるのを待っておられるお方です。素直に神のもとに帰ればよいのです。神は求められること、探されること、門が叩かれるのを待っておられます。神は私たちの罪の闇を、命の光が輝き出る曙にお変えになることが出来るのです。

 「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ書10章20~22節)と言われるとおりです。

 朝毎に慈しみ深き主に信頼し、主の御前に進みましょう。御顔を仰ぎ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。 

 主よ、罪深い私をお赦しください。どうか私を内側から清めて、新しくしてください。清い心、新しい霊を授けてください。御救いの喜びを再び味わわせ、自由の霊によって支えてください。真心から近づくことが出来ますように。新たな恵みを得て、主に仕えさせてください。 アーメン



12月12日(木) アモス書3章

「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。」 アモス書3章8節

 主なる神がイスラエルの人々を「わたしがエジプトの地から導き上った全部族」(1節)と呼び、「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ」(2節)と告げられます。しかしながら、その次の言葉に驚かされます。「それゆえわたしはあなたたちのすべての罪のために、あなたたちを罰する」(2節)と言われるからです。

 何をもって「罪」と言われているのか、これだけでは分かり難いですが、イスラエルは主に選ばれてエジプトの奴隷の家からの解放され、約束の地に導き入れられるという恵みに与りましたが、その選びには目的がありました(申命記6章21節以下、7章6節以下)。それはしかし、彼らに免罪という特権を与えるようなものではありません。

 2章6節以下で、イスラエルの罪として挙げられているのは、イスラエルが正義と公正を蔑ろにし、主の御声に耳を傾けないということでした。つまり、イスラエルの民は自分たちが選ばれた意味を解さず、主の御声に耳をふさぎ、正義と公正を行わなかったので、そのすべての罪のゆえに罰すると言われているわけです。

 3節以下には、疑問文が並びます。3~5節は、原因もないのにこういう結果になるだろうかと問う形式で、これを聴く者が「否」と答えることを想定しています。続く6~8節では、こういう原因があれば、こういう結果にならないだろうかと問う形式になり、それに対しては「然り」と答えることが想定されています。

 その最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり、「主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」という一句が告げられます。主の語られる言葉を聴いたなら、誰もが預言するだろう、然り、そうだその通り。誰でも預言するということです。

 ところで、なぜ預言者アモスは、このようなことを記しているのでしょうか。一つには、アモス自身が何故北イスラエルで預言を語るのか、その理由、根拠を説明していると考えられます。また、獅子が吠え(4,8節)、角笛が吹き鳴らされ、災いが起こる(6節)という記述から、主の語られた言葉はアモスに脅威を与え、恐怖を呼び起こすようなものだったのでしょう。

 小国イスラエルが、アッシリアやエジプトという大国にはさまれながら自治を保ち、平和裏に発展するというのは、大変困難なことだったと思います。アモスが預言者として活動している時の北イスラエルの王は、ヨアシュの子ヤロブアム(2世)でした(列王記下14章23節以下)。

 彼は41年イスラエルを治めましたが、その間の治安は安定し、北イスラエル王国の歴史の中で最も繁栄した時代でした。だからこそ、41年も王位についていることが出来たわけです。国土も北に南に拡大して、ソロモンの時代の国土にも匹敵するほどだったと言われます。王としての手腕は、高く評価されるべきものといっても良いと思われます。

 しかしながら、イスラエルの民がヤロブアム2世の治世下で繁栄を謳歌していたとき、アモスは神の御声を聴きました。あるいは、アッシリアの迫り来る足音を「獅子の吼える声」として聞いていたのかも知れません。そしてその声を聞くことが出来たのは、アモスただ一人だけだったわけです。

 「美しい門」の傍らで物乞いをしていた足の不自由な男を立ち上がらせたペトロとヨハネが(使徒言行録3章1節以下)、サンヒドリン議会に呼び出され、尋問を受けたとき、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(同4章19節)と答えました。

 ペトロとヨハネは、十字架にかかって死なれた後、三日目に甦られた主イエスの福音を、聖霊の力を受けて大胆に語っていました。そのときペトロは、「ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリストという)名のほか、人間には与えられていないのです」(同4章12節)という、はっきりとした確信に立っていたのです。

 それは、カイアファの官邸で主イエスが裁かれているとき、三度も主イエスを知らないと否んだペトロ(マルコ14章66節以下など参照)と同一人物とは思えない、全く変えられた姿です。ペトロの内に、確かに聖霊の力が与えられていたのです(使徒言行録1章8節、2章1節以下)。

 私たちも聖霊の力を受けて、イエス・キリストこそ私たちの主であることを宣べ伝えていきたましょう。日々聖霊に満たされて、「主の名によってこられる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19章38節)と主をほめ歌いましょう。

 主よ、私たちは主イエスの贖いの御業によって救いに与り、神の子としていただきました。その恵みを疎かにせず、主の福音の証し人となることが出来ますように。そのために、聖霊で満たし、その力に与らせてください。この時代に世の光、地の塩としての教会の使命を果たしていくことが出来ますように。 アーメン



12月11日(水) アモス書2章

「ユダの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖もあとを追った偽りの神によって惑わされたからだ。」 アモス書2章4節

 諸国民への裁き(1章3節以下)の最後に、モアブに対する裁きが語られます(1節以下)。「モアブの三つの罪、四つの罪」と言いながら、そこに挙げられているのは、「彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にした」ということのみです。

 王の骨を焼いて灰にするというのが、列王記下3章27節の、王となるはずの長男を人身御供として焼き尽くすいけにえとしたようなことか、それとも、エレミヤ書8章1,2節の、王墓を荒らしてその骨を焼いたようなことなのか、論争されていると、岩波訳の脚注に記されています。ただ、モアブの罪として、エドムの王の骨を焼いたというので、エレミヤ書の方が妥当でしょう。

 エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫ですが(創世記36章1節以下、6,8節)、「剣で兄弟を追い、憐れみの情を捨て、いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けていた」(1章11節)と、イスラエルに対する暴力的な行動が断罪されていました。

 そのエドム人の王の墓を荒らしたこと、遺体を焼いたことが、モアブの罪として断罪されています。墓を荒らし、遺体を汚すことは、他者の命や宗教に対する冒涜といえます。主なる神は、異教徒だからといってエドム人の生命を軽んじ、その宗教を冒涜してよいとは言われないのです。

 諸国民への裁きに続き、4,5節に南ユダの裁きが語られます。敵対する諸国民に対する裁きを喜びながら聞いていた北イスラエルの民は、南ユダの裁きについても、気分よく耳を傾けていたのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(4節)に述べられているユダの罪は、これまでに語られてきた諸国に対するものとはまったく違います。隣国を荒らしたなどということではありません。ユダの人々が主なる神の教えに背き、異教の神々を礼拝したというかどで、諸国民と同様の裁きを受けているのです。

 それには理由があります。南ユダ王国の人々、そして6節から裁きが語られる北イスラエル王国の人々は、主なる神から特別の恵みを得ました。彼らは、主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、約束の地カナンに領土を与えられました(9,10節)。

 40年の荒れ野の生活の間、服は古びず、靴も擦り切れることなく、パン(マナ)も毎日必要な分だけ与えられました(申命記8章3,4節、29章4節)。肉がほしいといえばウズラの肉が与えられ(民数記11章)、水が飲みたいといえば、岩から水が流れ出るようにされました(出エジプト記17章1節以下、民数記20章1節以下)。

 それらはすべて、神の恵みでした。エジプトの奴隷であったイスラエルの人々は、神の憐れみのゆえに、恵みによって選ばれて、神の宝の民とされたのです(申命記7章6~8節)。それにも拘らず、彼らは恩知らずにも主の教えを拒み、その掟を守ろうとしなかったというのです。そして、異教の神々を祀ることさえして、神の怒りを買ったわけです(4節、申命記7章9,10節)。

 「三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」という言葉が、1章3節~2章5節において繰り返されてきました。「三つの罪、四つの罪」とは、三つか四つの罪という意味でしょうか、3+4=七つの罪という意味でしょうか。いずれにせよ、多くの罪という意味でしょう。

 ただ、諸国民の罪は、いずれも一つしか記されてはいませんから、繰り返し、何度も罪を犯したと読むことが出来るでしょう。そして神の選びの民、ユダは、それこそ何度も何度も神を悲しませ、繰り返し繰り返し神を憤らせてきたのです。

 6節以下には、北イスラエルの裁きが述べられます。アモスは、預言者として諸国民の裁き、そして、自分の出身地の南ユダの裁きも語りましたが、北イスラエルの罪は、かなり詳しく語られています。確かに彼は、北イスラエルに遣わされた預言者なのです。

 先ず、「正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った」(6節)とは、裁判官が賄賂を取って法を曲げ、貧しい者を罪に定める判決を下したということです。また、「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」(7節)とは、弱者を虐待したということもあるでしょうが、弱い者、貧しい者から搾取しておのが腹を肥やそうとしているということです。

 また、「父も子も同じ女のもとに通い」(7節)は、近親相姦というようなことではなく、何世代にもわたって異教の神殿娼婦のところに通い、まことの神への信仰を捨てたということです。

 さらに、神が立てたナジル人に、禁じられている飲酒を強要し(民数記6章3節)、預言者に預言するなと命じたと言われます(11,12節)。徹頭徹尾神に背き、その御言葉に耳を傾けることを拒否しているわけです。これらのことは、4節に掲げられたユダの罪を詳述したものといってよいでしょう。

 そこで、「わたしは麦束を満載した車がわだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」(13節)と、その裁きが告げられます。「地を裂く」は「ウーク(押しつぶす、砕くの意)」 という言葉です。口語訳、新改訳は「圧する」、「押さえつける」と訳しています。岩波訳は「轟かす、轟音を立てる」と訳し、脚注に「地震を考えたい(1章1節、6章11節参照)」と記しています。

 轟音を立てて地が引き裂かれるような地震に襲われれば、14節以下に言われるとおり、だれもその激しい揺れから逃れることができず、剣や弓、馬も、地震から勇者を守り助けることはできません。そのように、主の裁きは突如として襲い来り、すべてのものを飲み込むというのです。

 主イエスも「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24章38,39節)と教えておられます。 

 ローマ書11章22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」とパウロが記しています。神の慈愛にとどまらなかった者、信仰に躓き倒れた者には、神の厳しさが臨むというのです。これは心したい言葉です。

 私たちもいつしか恵みに慣れ、感謝を忘れてつぶやくことが少なくありません。神の御言葉よりも自分の事情のほうが大事だと考えてしまいます。あらためて、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を神からいただいていることか、よく考えて見ましょう。主から賜った恵みをもう一度思い起こし、数えてみましょう。そして、心から神に感謝しましょう。

 主よ、私たちはあなたの憐れみによって恵みのうちに選ばれ、神の宝の民としていただきました。私たちの心に主の教えを刻み込んでください。キリストの言葉を豊かに宿らせ、すべての者が主を知ることが出来るように、喜びと感謝をもって主をほめたたえさせてください。 アーメン



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